なつぞら 〜僕と彼女と小さな町のものがたり〜


  

 第1話 





 その日、雛鳥咲は機嫌が悪かった。

 真夜中に誰かの大声で眠りを妨げられ、眠りの世界から引きずり出された雛鳥は、その後も浅い眠りしかできず、結果的に寝不足だった。

 朝には朝食当番の堀江が寝坊し、まともな朝食にありつけなかった。目の前に出されたのは目玉焼きとレタス、そしてチーズが載せられたトーストとジョッキに入った牛乳。朝食は和食にするようにいっているが、たまに寝坊すると手を抜いた洋食が出てくることがある。しかしそれはまだ許せる。仮にも作ってもらう身なのだ。そこには感謝こそすれ文句を言うつもりはない。

 しかし、あろうことか牛乳に氷が入っていた。堀江は基本的に牛乳が好きではないため、牛乳に氷が入っていようがいまいがあまり関係はないと思っている節がある。

 牛乳こそもっともあがめるべき飲み物として認識している雛鳥には、はっきり言って許せなかった。氷が溶けて余分な水分が牛乳に入ったらどうするのか。完璧なバランスで成り立っている牛乳の成分が失われたらどうするのか。

 ちなみに雛鳥もどちらかというと牛乳は好きなほうではない。しかし、彼女には飲まねばならない理由があった。 その理由を口にすれば、それこそ目も当てられないような惨劇が繰り広げられるのは明らかなので、堀江はルーしている。例え冷蔵庫の野菜室が牛乳に占拠されようとも。毎日毎日牛乳パックを洗って干しているのが自分だとしても。

 そういう理由があり、そして雛鳥もそれを知っているため、強くは出れなかった。無言でジョッキの中の氷を箸で取り出し、無言で流しに放り投げた。堀江が引きつった顔をしていたが、雛鳥は怒らなかった。

 そして登校途中。すでにイライラしていた彼女は、堀江とは別に家を出た。これ以上堀江が雛鳥の怒りに触れようならば、必ず何か悲惨なことが起こると両者ともわかっていたから、二人は何も口にしなかった。

 犬にほえられ、いつもは引っかからない信号で待たされ、挙句の果てに自転車のチェーンが外れた。しかしそれでも雛鳥は耐えた。


 なぜなら。


 もうすぐ夏休みだから。その心躍る理由だけで彼女は今日を平穏に過ごそうと思っていたのだ。

 だがしかし、

「いやだから大ニュースなんだって! 驚きだよ驚き!」

 この、

「やっぱ俺の情報網はすごいと改めて思ったね。多分校内の学生で俺しかしらねぇ!」

 いかんともしがたい騒音は

「あ、雛鳥! ニュースニュー」

 ついにその馬鹿でかい声を発していた人物、道方はその触れてはいけない人物に何のためらいもなくその視線を向け、彼曰く特別なニュースを一人でも多くの人に伝えるべく、雛鳥の方向に向き直った。

 そして危ういバランスで均衡を保っていた平穏は、一気に崩れた。

 ス、の文字を、道方の口が発する前に雛鳥の手が塞ぎ、驚きに目を見開いている彼と同じ向きに体をあわせると、固まっている右腕を引き寄せ、そのまま片足を後ろに振り上げた。

 雛鳥の鞄が宙に舞い、道方のメガネが綺麗な弧を描いた。

「…五月蝿い」

「ぐ、が、げふぉッ…お、おはよう雛鳥。だが、あ、挨拶を忘れたくらいで一本背負いはどうかと思う、のだが」

 背中をしたたかに打ちつけ、軽い呼吸困難に陥っている道方を見下し、ふう、と一息ついた雛鳥は、幾分落ち着きを取り戻した顔でいう。

「あんた、ほんとに打たれ強いわね。受身取ったようには見えなかったけど」

「ふふ…水泳部をなめるなよ…。と言いたいところだが、さすがにきつい。見事だ」

「誉めれるような立場じゃないでしょ」

 一本背負いをコンクリートの床でやるなんて無茶もいいところだと言いたげな道方に、雛鳥はあんたのそのでたらめな回復力はなんなのよと目線で返し、よくわからない空中戦が廊下で勃発する。

「…ま、いいわ。今ので結構スッキリしたし。で、ニュースって何なの?」

「おお。そうそう! 聞いてくれよ。こんな時期に転校生だぜ転校生! もうすぐ夏休みだってのに。なんか事件のにおいがするじゃん?」

「確かに珍しいわね。どんな子なの?」

「知らない」

 がくっと脱力する雛鳥。大方職員室の前を通り過ぎるかなにかした時に小耳に挟んだ程度らしい。

「あんたその程度で大騒ぎしてたの」

「そ、その程度って何だよ。重要ニュースじゃないか」

「もうちょっと情報集めてから喋りなさい」

 呆れた雛鳥は道方の脇をすり抜け、自分のクラスに入ろうとする。二年一組と書かれたプレートをくぐろうとして停止する。

 妙な違和感を覚えたためだが、その違和感の正体が、自分の教室に潜んでいるものなのか、はたまた今道方から聞いた話に潜んでいたものなのかは見当がつかなかった。しかし、雛鳥の、若干中学二年生にして天才的な格闘家として確立されつつある勘が、それは確かにあるものだと主張する。

「道方?」

「ん、どうした?」

「その転校生だけど、ほかに情報ないの?」

「いや、俺も職員室の前を通ったときに聞いただけだしなぁ。絵里ちゃんが話してたから、多分二年生の転校生だろうっていうくらいの話だし」

 ほんとにそんな程度の話だったのね、と雛鳥が改めて呆れた瞬間、背後に唐突に気配が生じ、反射的に振り返る。そこにそびえたつのは学校一の問題児にして風雲児、今日も無駄に元気を発散している五条院登その人だった。右手に鞄、左手に枕を持っている。朝から行動が謎めいているところは相変わらずであった。

「その質問には私が答えよう」

「ご、五条院先輩? なんで二年生の階にいるんですか」

 たまらず雛鳥が突っ込みを入れる。本当ならばその左手に納まっている枕の意味も問いただしたかったのだが、意味がわからなければわからないほど五条院は饒舌になる。堀江と近しいものとして少なからず接点のある雛鳥は、うかつに質問しないことの賢明さを知っている。

「五条院先輩。転校生についてなんか知ってるんすか? あと、その枕、なんなんすか?」

「あ、馬鹿…」

 空気を読まない男、道方。先程の雛鳥へのアタックもそうであるが、基本的にこの男は空気を読まない。確固たる自信と信念の元己の道を突き進んでいるのか、それともただの社交性のない馬鹿なのか。

「残念ながら私の体はひとつなのでな。順番に疑問に答えよう。ひとつ、私が二年生の廊下にいるのは堀江君に用があった為だが、ふむ、彼はまだ来ていないようだな。後でまた顔を出そう」

 別にわざわざ教室まで来なくても下駄箱で調べたらいいんじゃ?、そう言おうとして雛鳥は口をつぐむ。どういう理由か知らないが、下駄箱で調べるだけでは足りない何らかの理由があるのだ。常人が考え付く程度のことはとうに超越しているに違いないのだ。五条院という男はそういう男なのだ。

 堀江が学校に来ていないことは下駄箱で上履きの有無を見れば事足りる。わざわざ教室に顔を出す必要性はない。

 となると別の誰か。五条院は有名だが、二年生の知り合いとなると、唯一の二年生天文観測部員の堀江とその周りにいる人間、後は日々無益な攻防を繰り返している風紀委員ぐらいしかいないはずだ。

 いやしかし、堀江がまだ来ていないと言う発言。つまりは下駄箱を確認してからここに来るまでのタイムラグがあるということか。一体なにを。

「ふたつ、この枕だが、私の愛用でな。布団が恋しくて持って来てしまった」

 そんなはずあるか、そう言おうとして道方は口をつぐんだ。

 今は夏休み直前、蝉の大合唱が毎日無料で聞けるお得な猛暑の日々だ。冬の雪の舞う日ならいざ知らず、こんな日に布団が恋しいやつなんているもんか。そう思ったが、五条院ならあるのかもしれないと思う。いや、おかしくないとまで思う。

 だって、五条院だから。

 くしくも二人は賢明な判断をしたわけだが、確実にその間には差があった。どうしようもない、一回生まれ変わったぐらいでは塗り替えようもない差であった。

「みっつ、転校生についてだが、どうも、すごい」

 それぞれの思考に沈んでいた二人は、その言葉に一瞬思考が停止する。

 まさか五条院の口から他人をすごいなどという言葉が出てくるとは夢にも思わなかった。そのすごいの意味合いがいまいちはかれないが、彼がそういう以上、何らかの意味ですごいのだろう。

「すごいってなんですか!」

「道方君。あいにくと私はすべての解を持っているわけではない。そしてまた、その解を示すのは私がそれに値すると判断するときだけだ。残念ながらその質問には答えられないといっておこう。ある意味、これが答えとも言える」

 不敵な笑みを残し、律儀な回れ右をして革靴を踏み鳴らす五条院の姿を、二人は複雑な顔で見送る。というか、上履きではなく革靴を履いていることをはじめて知った。堅苦しい、と雛鳥は素直な感想を漏らす。

「どんなヤツなんだろうな、転校生?」

「知らない。けど、なんかやな予感がする」

 五条院がすごいと言った。雛鳥の勘が異常と告げた。

 間違いなく何かの事件が起こる。そういえばはじめに道方は事件のにおいがする、と言ってはいなかったか。なかなかあれで本能的に鋭いのかもしれない。雛鳥は難しい顔をして五条院を見送っていた道方を見て言う。

「あんたも結構謎よね」

「何だ? 新手の口説き文句か? まあ確かに男は少しミステリアスなほうが、うん? あれ? 女だったか?」

「……」

 ダメだこいつは、と雛鳥は見切りをつけて今度こそ自らの教室に入るべく背を向ける。そこにダメだこいつは、と烙印を押された男が声をかける。

「そうだ雛鳥、言い忘れてたけど」

「なに? そろそろ予鈴鳴るわよ?」

「いやその。なんだ。お前が好きならいいんだが」

「?」

 珍しく言いよどむ道方を不審な目で見る。

「何の話? いいから言いなさいよ」

「ああ。中学生でネコさんはどうかと、思うんだが」

 一瞬何言ってるんだこいつは、と思い、次の瞬間今日の朝の出来事がフラッシュバックする。確か寝付けなくて、寝汗がひどくて、朝、シャワーを、浴びた。

 そして、タオルで拭きながら見下ろした、着替えの中に、確かに、ネコ。

「いや、そういうのは個人の趣味だし、でも、雛鳥子供っぽいの気にしてるからさ! 黒とかはいわないからせめて無地で…」

「それ以上」

 一瞬にして怒りのボルテージが復活した雛鳥の顔は真っ赤で、対する道方は青かった。良かれと思ってアドバイスしたが、やはりあの状況下で得た情報など黙っておけばよかったのか、と先程投げられて雛鳥に見下ろされた場面がよみがえり、ひとりごちる。問題なのは状況下ではなくその情報そのものだったが、それを理解するには少々乙女心に対する理解が浅かった。

「しゃべるなぁああああああああああッ!」

「げふぅッ!」

 雛鳥の鞄が先程より高く舞い上がり、道方のメガネのフレームがゆがむ。

 とりあえず、鞄の中の弁当の運命は、火を見るよりも明らかだった。





 雛鳥から遅れること数刻、二年生でごった返す廊下を堀江は歩いていた。

 今日もすこぶる暑い。一日ぐらい休んでも罰は当たるまいに、太陽は今日もじりじりと外気温を上げ続けている。

 雛鳥の機嫌が悪いのもそのせいか、と堀江はひとり納得する。触らぬ神にたたりなしとはよく言ったもので、あんな状態の雛鳥にうかつに触ればやけどじゃすまないことは長年の付き合いでわかっている。確実に地面にひざをつく結果になるだろう。

 だから堀江は、廊下に道方が倒れていても何の疑問も感じなかった。というよりも、道方が奇行に走ることは珍しくなく、その証拠に雛鳥のことを知らない生徒が道方を見ても、誰一人助け起こそうとはしなかった。教師すらも「予鈴がなるぞー」と足元をスルーしている。

 ここまでくれば立派なものだと思うが、さすがにいち友人としては最後まで放っておくのもどうかと思い、うつぶせに倒れる道方に語りかける。

「おい起きろ。ホームルームはじまんぞ」

「ていうか話しかけるの遅くないですかね? ゆうに十分は放置されてましたけど俺」

「なんていうか、あれだよ。新しい遊びかと思ってな」

「どんな遊びだよ?!」

 勢いよく食いかかる道方に、雛鳥からやられたダメージは残っていないようだった。その現場を見ていない堀江としてはなんともいえないが、やっぱりこいつは普通じゃないと思う。

「ったく、雛鳥のおかげでニュース触れ回る時間がなかったぜ」

「ニュース?」

 堀江は席につきながら道方を振り返る。いまだ入り口で仁王立ちしている道方は我が意を得たりと言わんばかりの笑顔で堀江に言った。

「おうとも、実はな、きょ」

「邪魔だ。道方」

 台詞の途中で出席簿が脳天直撃。せめてもの救いか、角でなかった点は不幸中の幸いと言えるだろう。美人理科教師浅倉かおりは、きつめの視線で道方を見下ろす。

 浅倉は長身である。標準的とはいえ男の道方を見下ろすことができるその長身と、整った顔のおかげで、朝霧二中の外見マドンナとして名をはせている。ある意味、山口とは正反対の位置にいる教師と言えるが、二人は同期で、仲はいいらしい。

「予鈴は鳴ってるんだぞ。いいから席に着け」

「うっす」

 しぶしぶと言った様子で道方は席に着く。窓際の好位置な堀江と違って、道方の席は廊下側。しかも一番前ときている。休憩時間における機動性は申し分ないが、夏は暑く冬は寒い悪条件を兼ね備える。何かと雑用を押し付けられがちな席だ。

 結局ニュースとやらを聞けなかったが。まあたいしたことでもないのだろうと一人納得する。

「それでは出席を取る」

 よどみなくクラスの名前を読み上げていく浅倉は、背筋を伸ばし、いかにも仕事できますといった風体のキャリアウーマンである。毎年毎年、卒業式シーズンになると生徒からの告白を一身に受けて、そのすべてを切り捨てているというほんとの様なうその様な噂が立つ。

「欠席は海田か。それでは連絡事項だが…」

 と言って、一旦言葉を切る。ちらりと廊下のほうを一瞥し、軽く溜息をひとつつく。

「突然だが転校生だ。本当は夏休み明けに転入予定だったんだが、親御さんの事情で一足早い運びとなった」

 いきなりの転校生宣言に教室中が色めき立つ。そこかしこから「転校生?」「マジかよ」と言った声が聞こえる。中には「ホントだったんだ」という声も混ざっていた。どうやら一足先に存在を知っていたらしい。

 堀江も例に漏れずその引き戸の奥にいるだろう転校生に心が躍る。男か女か。趣味や特技は。前の学校はどんなところだったのか。

 普段そこまで回転していない頭だが、自分の興味が直結したときは信じられないほどの速度で回転する。堀江の脳内ではすでに女子の転校生、編み物と読書が趣味の大人しい子が教室に入ってくる途中でこける図が展開されていた。

「それじゃ入ってきなさい」

 失礼しますという声に、堀江の頭の回転は鈍くなった。

 引き戸を開けて教室に入ってきたその姿を見て、堀江の脳内展開図はフリーズした。

 教壇に上がって、

「阿賀野、奈緒です。よろしくお願いします」

 一瞬の静寂の後、

「ブラボォー!!!」

 と、一人のバカがスタンディングオベーションで拍手を送る。それにつられて他のヤツも拍手を送る。ひそひそと「可愛くない?」「レベルは高いな」「87点」といった声が聞こえてくる。

 だがしかし、堀江はそんな声が聞こえてこようと、周りのヤツが拍手を送っていようと、阿賀野の顔を見ながら固まっていた。そんな馬鹿な。昨日会ったときは東さんはそんなこと一言も言ってなかったじゃないかと昨日の記憶を掘り起こす。

 いやいやそもそも昨日の人物とは別人なのではないか。そう思い改めて阿賀野の容貌を観察するが、そもそも昨日はスタイルと絶対領域に見とれていただけで、肝心の顔に注意がいっていなかった。堀江一馬、健全な中学生として悔いのない行動だったが、一人の人間としては確実に間違った行動であった。

「阿賀野さんは親御さんの事情で今まで学校にいってなかったのだ。あんまり変なこと吹き込まないように。まあ、もうすぐ夏休みだ。その間に親睦を深めるのもいいかもしれんがな」

「わからないことばかりですが、みなさん、よろしくお願いします」

 「学校いってなかったんだって」「お嬢様?」なんて声も上がる。道方は「任せといてー!」と大声でラブコールを送って浅倉ににらまれていた。しかし、少なくともあの東さんが深窓の令嬢と知り合いだとは到底思えなかった。

 だから、堀江は自分の中であの子は昨日会った子とは別人だと決定付ける。その決定によって硬化した体は元通り、いつもどおりに振舞おうと

「あーとりあえず静まれ。もうホームルームの時間がない。後は休憩時間にするように」

 浅倉の声に教室が静まる。その分視線は阿賀野に集中し、阿賀野はばつが悪くなったかのように下を向いてしまう。

 そんなことはお構いなしといわんばかりに浅野は続ける。

「さてと。阿賀野の席だが、少し手違いがあってな、用務の人が今日は土曜で休みらしくて、用意ができてない。まあ、今日一日だけだから、休んでる海田の席を使うとしよう」

 ずあっと音がするかのごとく、全員の視線が海田の席に向かう。今は主がいないその席は、この教室で一番穏やかな席に思える。窓際最後尾に位置するその席ならば競争的な意味で、比較的安心だろうと約一名を除きクラス全員が思った。

 その約一名とは。

 言わずもがな、堀江一馬その人だった。

 海田の席の前に位置する席で、再び固まった堀江に、封印していたはずの昨日の記憶がよみがえる。すりガラスの向こう、一瞬だけ見えた肌色の世界が堀江を襲う。

 硬直している堀江に、阿賀野が近づく。堀江は視点を動かすことができず、阿賀野のほうはいまだ堀江の存在に気づいていない。好奇の目を照れ笑いというか戸惑いでかわしながら、しかし確実に堀江の後ろの席を目指して近づいてくる。

 そして。

「「あっ」」

 同時に声を発し、そして同時に動きを止め、同じタイミングで顔を赤らめて下を向く。二人だけならばほほえましさが残っただろうが、残念ながら現在二人の周りには50あまりの瞳が存在し、二人の動向をうかがっている。

 ほほえましさどころか気まずさ、むしろ疑念、殺意まで視線に交わりだした頃にようやく阿賀野が動き、顔を隠しながら席に着く。様々な思念が入り混じった視線を受けながら、堀江は必死に石になることに専念する。

「あーなんだ」

 気まずい空気が支配していた沈黙を破ったのは、目の端に一限目の数学教師の存在を捕らえた浅倉だった。気がつけばホームルームの時間は終了し、さらに休憩時間も終了しようとしていた。

「ま、とりあえずがんばれ」

 それは一体どういうアドバイスなのか。何に対して、誰に対してのがんばれなのか。おそらく、言った浅倉自身もわからなかったのだろう。珍しくそそくさと出席簿を抱え、数学教師に会釈しながら教室を後にする。

 そして訪れる始業の鐘。律儀に鐘が鳴るまで廊下で待機していた数学教師は、教室に入るなり、場を支配していたなんともいえない負の空気に気圧される。

「な、どうしたんだ?」

 教室入り口に座っている道方にたまらず尋ねるが、道方だって何と答えてよいかわからない。ただなんとなく、としか答えられないのだから。

 みんながみんな微妙な顔をしたまま、しばらくは戸惑っていた数学教師も、無理やり空気をかき乱すように授業を始めるぞと大声で宣言すると、次第にいつもの空気が戻ってきた。

「おし、それじゃあ今日はお待ちかね夏休みの宿題についてからだ! 問題集持ってきてるか? それの34ページを開いて―――」

 そこまできて、堀江は大きな息をつき、後ろの席にいるであろう、もう間違いない。昨日堀江が着替え中に乱入した少女のことを考える。

 多分、怒っているのではないと思う。

 怒っているのならば昨日のうちでのやり取りの最中にそれなりの反応をしたはずだし、隣に咲がいたからかもしれないが、挨拶もしてくれている。ひとまず顔を合わせるのも嫌だというレベルで怒っているのではないと思う。

 だがしかし、昨日ちゃんとした話をしていないのも事実であるし、その上できちんと謝っておいたほうが今後の生活が保障されると思う。主に堀江の精神衛生上の問題だが。

 もう一度大きな溜息をついた堀江は、さてどうやって切り出すか、と思いをめぐらせる。当然、数学教師の話など耳に入って来ようはずもない。

 こういった積み重ねが勉強に関する理解の差を生むのだという現実を知るには、堀江はまだまだ子供で、まだまだ青春謳歌中なのだった。







「それで?」

 今日は、神様までとことん堀江を苛め抜くつもりであるらしい。

 本日授業は4限まで。そして今は3限目。本来ならば古来の日本の心を学ぶべき古典の時間、言い換えるならば昼寝時間のはずなのだが、担当教員が夏風邪を引いたらしく、そして夏休み前だということで代替プリントも作成されず、夏休みの宿題を進めるという名目の下自習時間という名の自由時間に成り果てていた。

 5分間の休憩時間のたびに人を集めていた阿賀野の席の周りには、当然のごとく人垣ができており、不毛な質問が次々と浴びせられている。チャンスをうかがうどころか、朝の「二人して赤面」事件が尾を引いているのか、堀江は邪魔だとばかりに席を追い出され、道方のいる正反対の位置に避難していた。

「お前と阿賀野さんはどういう関係なんだ」

「……」

 珍しくまじめな目をした道方が迫る。メガネの奥の瞳はクラスの大多数と同じく疑惑と疑念に満ちている。

 転校生と二人、息のあった赤面振りを見せ付けられればそれは仕方のないことなのかもしれないが、さて一体どうこいつに説明すれば丸く収まるのだろうと堀江は考える。

「別に、どうって言う関係でも…」

「ほう、それじゃ何か。初対面で目があったら赤面してうつむいて、そこから始まる一目惚れストーリーってか? そういうのは一目惚れとはいわねぇんだよ! 何で初対面で両想いなんだよ意味わかんねぇ!」

 言ってて自分も意味がわからなくなったらしい。叫んだ後しばらくして道方は自分の中で今の発言を取り消し、「それで?」と同じ質問を堀江に問いかける。

「ホントになんでもないんだよ。昨日知り合いと一緒にうちに来ただけだよ!」

「うち、って、堀の湯にか?」

「ああ。その時にちょっと顔合わせただけだよ」

 その顔を合わせた後に雛鳥に回し蹴りをもらったとは口が避けてもいえない。

「ふーん? なるほどねぇ? で、何で顔が赤くなるんだ?」

「、そりゃおまえ、ただの風呂屋の番台だと思ってたヤツが同じクラスメイトだったら少しは恥ずかしがるだろうよ」

 堀の湯では堀江や雛鳥が番台をするときがままあるため、番台を過ぎてから女湯・男湯が分かれており、昔ながらの番台にいれば女湯も男湯も見放題というスタイルとは異なる。それでも、年頃の少年少女たちにとっては、湯上り姿を見られるというのはそれなりの抵抗があるのだった。

「まあ、そりゃそうだな」

「だろ? いきなり目の前にその顔が現れりゃなおさらだ」

 うーむと納得しかけの道方を見ながら、我ながらうまい言い訳を見つけたと堀江は思う。全くの嘘を言っているわけではないし、何より道方はよく堀の湯を利用する。堀江の言っていることに不自然な点が見つからないことから、道方は最終的に納得したようだった。

「んじゃ、別に特別な関係ってわけでもないんだな?」

「当たり前だろ。どうやったら転校したてのヤツとそんな仲になれるんだ」

「まあそういうなよ。仕方ねえだろ、あの人気じゃ」

 そう言うといまだがやがやと盛り上がりを見せる人垣を指差す。

「…すごいな」

「だな。まあ、今まで学校にいったことないっていうのがレアすぎるんだろうが」

「それってホントなのかな?」

「わからんけど、そんな嘘つく必要性ないだろ。というかそもそもこんな片田舎に転校してくるってこと自体で話題性は十分だ。それに加えてあの容姿。食いつかなきゃ男じゃないだろ」

「落ち着けバカ」

 話しているうちにテンションが上がってきたらしい。ある意味自分でこれだけテンションをコントロールできる人間も珍しいと思う。もはや才能としか思えないが、役に立っていない能力を才能と呼んでしまってもいいものか。立ち上がりそうになる道方を押さえつけ、さらに言う。

「阿賀野はレベルが高い」

「…それで?」

「ここは堀江、お前が話題づくりに一役買うしかないだろう」

「僕が?」

「そうだ。とりあえず初対面でのインパクトは十分だっただろうし、セカンドコンタクトも問題ない。少なくとも、あそこで人垣になってるやつよりかは近い位置にいると思われる」

「え、いや、そもそもなんで僕が」

「おまえ、奈緒ちゃんと知り合いになりたくないのか!」

 さりげなく奈緒ちゃんと呼ぶあたりが道方らしいといえば道方らしい。しかしそのずうずうしさで数々の恋愛に敗北している事実を、こいつはもうちょっと認識したほうがいいと思う。

「知り合いにはもうなってるだろ。とりあえず今日の朝のことはおいといても、席もまん前だし」

「お、お前はそれでいいかもしれんが俺はどうする! 席も正反対に位置しているし、何より自己紹介のときのブラボーコールで若干すべり気味なんだぞ」

「知るかそんなの」

 さっきの自信満々な顔はどこへやら、今度は妙に弱気になって堀江にすがりつく。しかし、こっちは正直それどころではない。雛鳥と東への緘口令に阿賀野への謝罪、とりあえず謝罪だけでもきっちりしないと、授業中後ろが気になってしょうがない。

「ほほう、いいのかそんなこと言って?」

「何?」

 またしても強気に逆戻りした顔を見て、お前もうかくし芸で生きていけよと堀江は言いたくなる。

「朝の「二人して赤面」事件の誤解をといてやるといっているんだ。その見返りにお前を通じて俺が奈緒ちゃんと仲良くなるって寸法だ」

「おまえなぁ…」

「さあどうするんだ! 自分が破滅するか俺を助けるか!」

 別に自分で誤解を解いて回ればいいだけの話ではあるが、いかんせんこの噂がどこまで広がるかわからない。自分のあずかり知らぬところで尾びれ背びれ胸びれまでついた話が一人歩きするのはいただけない。

 その点道方の顔の広さは尋常ではない。雑貨店の息子で、店にもよく顔を出して仕事している上に、その武勇伝の数々はこの朝霧の町で知らぬ人はいないとまでいわれている。恐るべきは田舎の閉鎖性とその情報の伝達速度と情報ネットワークの発達である。

「…わかった。やるだけやってみよう」

「さすが堀江だ! お前はやればできる子だ!!!」

 がっちりとあまり健全ではない握手を交わす。

「それで、具体的に何しろってのさ」

 堀江としては、何よりもまず昨日のことに関してきちんと謝っておきたかった。何をするにしてもいきなり話しかけたのでは逃げられる可能性が高い。今日の赤面を恥ずかしさだとするならばなおさらだ。恥ずかしさ以外に赤面する理由があるのか不思議ではあったが。

 まずは慎重にタイミングを見ながら、できれば誰かから関わる理由を振られるっていうのがベストだな、と思春期男子特有の消極的な接触動機を考えている横で、

「奈緒ちゃーん! こいつが話あるんだってよー!」

「!!!?」

 この世に何も悩みはありません、聖人君子でもそこまで晴れやかな笑みは浮かべられないであろう笑顔で道方はとんでもないことをのたまう。こいつに空気を読めなどと高度な処世術を要求するつもりはない。だがしかし、せめて何もしないでいてほしかった。

 ずあっ、ではなく、今度はギロッっと擬音が聞こえてきそうな勢いで、またしても視線の大移動が起きる。大多数は目の保養とばかりに阿賀野を見ていた視線が、聖人君子道方、そしてその後ろにいる堀江へと注がれる。下手な大声によって、まじめに宿題に取り組んでいた奴の視線まで堀江に大集合している。

 本日二回目、教室の視線を一身に受ける堀江は、今日は一体何の日かと神に問う。天を仰ぎ、一呼吸目を閉じた後、さすがにこれ以上の沈黙はまずいだろうと口を開く。

「え、えーっと」

 一体何を言い出すのか。その好奇の視線には、もちろん阿賀野自身の視線も含まれている。

「が、学校、案内、今日、放課後?」

 お前は何人だ。

 片言の日本語というより、ただ単語を羅列しただけのそれは、だがしかしいっぱいいっぱいの堀江の思考を端的に表したといえよう。

 とはいえ、堀江の言わんとするところは大体の意味で伝わり、またしても微妙な空気を作り上げる。阿賀野を取り巻いていた男連中は確実に堀江を敵として認識している。

 阿賀野に伝わったのか伝わっていないのか、いまさら言い直すにはタイミングを逃しすぎ、かといってこれ以上放置されるのも限界だと堀江が感じ、ようやく言葉の意味を理解した阿賀野が返答をしようと口を開き、これはまずいなさすがに仕損じたかとフォローに回ろうとした道方がとりあえず声を発したのが同時だった。

「「「あ」」」

「はーいみなさん、自習時間は終了ですよー」

 そして同時に新たなる人間が教室内に乱入してくる。凍った時間を打ち砕く声の主は我らが山口。クラッシャー絵里は、立ち歩く多くの生徒たちを見ながら声を荒げた。

「自習時間は立ち歩き厳禁です! まあ、新しい転校生に話を聞きたいという気持ちはわからなくもないですが。とりあえず席に着いてください。堀江君。君は一体どこまで遊びにいってるんですか」

 突然のことに誰もが動けなかったが、その声を皮切りに、みんなぞろぞろと自分の席に戻っていく。さながら停止した時間がいきなり動き出したかのようである。堀江も持っていく意味のなかったノートと筆箱を手に自分の席に向かった。

 ふと覗き見ると、阿賀野は机に顔を伏せている。わからなくもない。転校初日にしても目立ちすぎている。しかも原因は同一人物、この自分だ。またやってしまったのかと堀江は自己嫌悪に陥る。

 客観的に見れば原因の半分は道方にある気がしなくもないのだが、そんな冷静な判断を下せるほど堀江には余裕がなかった。何しろいまだに顔が火照っているのがわかる。耳だって熱い。誰だ。耳たぶは体の中でも温度が低いなんていった奴は。

 壇上で山口が自習時間について長い講釈をたれている。話が長いのはえてして嫌われる教師の典型例であるが、そのどこかずれている山口の性格は憎めない部類であり、恐れられこそすれ、嫌われることはめったにない。

 いつもなら右から左に聞き流すその説教めいた講釈も、何も考えたくない今だけは、素直にその話に耳を傾けることで頭の空白を埋めていた。

だから。

 突然背中に走った違和感に、突然意識を持っていかれた。

がたっ!

「と、なんですか堀江君?」

「あ、い、いえ、何でもありません。すいません」

 思わず席を立ってしまった。声が出なかったのは不幸中の幸いか。

 一瞬背中をつつかれる感触があった気がする。

 今この状況下で自分の背中に触れる人物など一人しかいない。だが堀江はそれを何故か認めたくなくて、道方あたりが幽体離脱でもしたんじゃないだろうかなどと馬鹿なことを考える。そもそも幽体離脱で肉体に触れるのかと変な方向に思考が飛ぶ。

 とその時、背中につんつんと触られる感触がよみがえる。はは、感触まで認識できるなんて、僕の妄想もたいしたもんだと頑なにその存在を否定する。

 その念が通じたのか、その一回を最後につんつんはなくなった。ふうと吐いた息には、厄介事に巻き込まれなくてよかったという思いが多分にこめられている。

「というわけで、自習時間に喋るのは―――」

 改めて山口の説教でも聞くかと閉じていた目を開き、顔を上げた瞬間、目の端に見慣れないものが映る。

 紙だった。

 堀江の持ち物では決してない、ピンク色のそれは小さく四つに折りたたまれていた。自習時間、全く開くことのなかったノートの上に、それは落ちている。

 落ち着くんだ堀江一馬。

 落ち着いて考えろ。落ち着いて考えればわかるはずだ。今、このタイミングで僕にメッセージを送ってくる必要のある人間がこの世界に一体何人いる。道方? 物理的に不可能だ。山口先生? 意味がわからない。

 そこまで考えて先程のつんつんの意味を知る。やはりこれは堀江の後ろに座っている仮初めの住人からのメッセージなのだろうか。そうすればつんつんも、このメッセージを今送る理由も説明がつく。先程の単語の羅列に対する返答なのだろう。

 無視することもできたし、気づかない振りして机の上から落とすこともできた。事なかれ主義の彼としてはそれが一番いい方法だったのかもしれない。しかし、それ以上に変なところで律儀な性格である彼には、そんなことはできなかった。

 恐る恐るその紙を開く。

『職員室での用事が終わってからでよければお願いします』

 最近の女子が書く丸っこい文字でも、雛鳥が書くような粗暴な文字でもない。そこにあったのは恐ろしいほどバランスの取れた、習字のお手本になりそうな綺麗な文字だった。

 文字の綺麗さもさることながら、同い年相手に敬語を使っている点でも阿賀野の品行方正さがうかがえる。単に社交辞令でしかないのかもしれないが、この年で社交辞令を、しかも同級生に使うのもそれはそれですごいことである。

 それはともかくとして、こんな風に書かれたら堀江も断るわけにはいかない。阿賀野には謝罪しなければいけないし、タイミングとしては申し分ない。何より、阿賀野と二人で放課後に会うという事実が魅力的である。

『わかった。それじゃあ三時に教室で待ってる』

 よくわからない高揚感が堀江を包み、回りに気づかれないように後ろ手に紙を返す。

 手のひらに乗せた小さな紙をつまみ上げる感触。完全に紙がなくなったことを確認すると手を引っ込める。

 たったそれだけのことなのに、堀江は妙にうれしかった。可愛い女の子と放課後に待ち合わせをするというシュチュエーションなど、いつも立ち読みするコンビニのマンガ雑誌の中でしかないものだと思っていた。それが今実際に起きている事実だと認識すると、自然にほほがにやけてくる。

 普段はストイックに見られがちだが、堀江とて健全な一般中学生である。彼女とまではいかないまでも、普通に女子と仲良くしたいとは思うし、道方と一緒に新入生の品評会をやったこともある。雛鳥に半殺しにされたが。

 にやけたほほを他人に悟られないように引き締め、壇上にいる山口を見る。話は自習時間の何たるかから、夏休みの心構えにその内容を変貌させていた。相変わらず論理展開が謎である。

 そして頭の上を通って紙が放り投げられる。見事に堀江の机の上に着地したそれは同じピンク色の紙切れ。なんでもないような顔をしながら、心の中では歓喜の声をあげて紙を開く。

『遅れるかもしれないですけど、お願いします』

 うんいいよいつまでも待っちゃう、と紙に書き込もうとしてそれではただの変質者ではないかと思いとどまる。

 ここはなんと書くのが正解か…そう思案しながら、土曜日の気だるい時間は過ぎていった。




 結論から言おう。

 堀江は、待ちぼうけを喰らった。

時は夕暮れの少し前。夏の夕方。遅れるかもしれないという阿賀野の言葉が堀江を縛り、気がついたら西日が窓から入ってきていた。じりじりお前の体に穴でもあけてやろうかという勢いで照らす太陽に、いつもなら苛立ちを覚える堀江だが、今ばかりはそんな気になれない。

カラスが鳴いている。気だるげに教室にかかる壁時計を視界に納めて。

 ―――5時、45分。

 お前少しぐらい休めよ。誰も見ちゃいないよ。今この世界中でお前を見てるのは僕一人だ。ちょっとの間目を逸らしておいてやるからさ。ほんの1、2周でいいんだ。その進んだ針を逆に動かしてくれないか。

 心の語りは口には出さない。だがしかし、堀江の脱力感は口に出していようがいまいがお構いなしに急速に高まって行く。ポケットに手を入れ、件のピンク色の紙を探る。指先に感覚が走り、のそのそと目の前に持ってくる。

『遅れるかもしれないですけど、お願いします』

 何度も見た。

 4限目はむしろ教科書よりその紙を見ていた。

「ふぅ…」

 分かってる。

 グラウンドで死にそうな声を張り上げていた運動部の連中の声が止んだぐらいから、その事実はゆっくりと夕日に照らされて伸びる影のように堀江に迫っている。いくら夏は日が長いとはいえ、あと1時間ぐらいで日は沈むだろう。そうすれば影が堀江を覆い、否が応でもその事実を認識しなくてはならなくなる。

 阿賀野奈緒は、来ない。

 何か用事でもあったのだろう。職員室に呼ばれたときに親御さんと一緒に帰らなくてはならなかったのかもしれない。なにしろ今まで学校に行かなくても何とかなっていたような雲の上の人だ。堀江は良く知らないが、小学と中学は義務教育とか言うヤツで、基本的にみんな学校に行かなくてはいけないんじゃないのか。そんな基本的、を捻じ曲げることが可能な人だ。学校の送り迎えに黒塗りの防弾リムジンが迎えに来ても不思議じゃない。そうだ、いつか漫画で読んだ事がある。たしか面白い髭をつけた執事がこう言うんだ。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「!?」

 がたっと音がした。

 ご丁寧にお辞儀をかました堀江は、その音を聞いて我に返る。で、目線の先にいるのは顔を真っ赤にした阿賀野。いや、顔が赤いのは夕日のせいか?

「あ、あの…」

 というより、今の見られたのか。 なんかよくわからないテンションでやってしまった、大仰に手を振り上げてそのまま一定の速度で胸の下に持ってくるあのお辞儀を? 執事だけに許されたあの技を見られたのか。

 うわ。恥ずかしい。

「すいませんでした!」

 どうやってごまかそうか、そうだ、あれは卓球のスマッシュの練習なんだよと口走りそうになった堀江は、阿賀野の謝罪の言葉に驚き、そのごまかしを飲み込む。

「え? なにが?」

「すいません…こんな時間までお待たせしてしまって…。なんていうか、いろいろありまして…」

「あ、いや、別に大丈夫だよ。夏休み前で課題いっぱいあるしさ、それやってたら時間なんてあっという間だったし」

 目の前の少女に気を使わせてはいけない。彼女は今日転校したてで気疲れもしているだろう。こんなところでさらに疲れる要因を増やしてはいけない。そのためなら、鞄の中で眠っている今までも、そしておそらくしばらくは白紙のままであろう夏休みの課題たちも文句は言うまい。

「それにしても時間かかったんだね…転校の書類とか、手続きとか?」

「職員室での用事はすぐ終わったんですが…」

「?」

「あはは、ちょっといろいろあったんです」

 言いづらそうにしていた阿賀野は、結局笑ってごまかすことに決めたらしい。堀江は、まあいいかと一人で納得し自分の机に近づくと、鞄を持って阿賀野に向き直る。

「今日はもう遅いから…。学校の案内はまたでいいかな?」

「あ…」

 阿賀野は、来た。

 だがしかし、もはや学校を案内する時間は残っていない。もう5分もすれば、校門も閉まるだろう。そんな後で校舎に残っているのが教頭にでも知れたら最悪だ。下手をすれば説教と罰掃除でもやらされかねない。夏休み前にそんなことは断固拒否したい。

「ごめんなさい。せっかく待ってもらったのに…」

「いいんだ。案内を言い出したのだって、僕がみんなより少し前に阿賀野さんと知り合ったっていうそれだけの理由なんだし。要するに僕が勝手にやっただけなんだから」

「でも…」

 申し訳なさそうにまつげを伏せる阿賀野を見て、堀江の心臓はうるさいぐらいに高鳴った。なんだ、どうした。さっきから平静を装っていた堀江の顔が、ここに来て汗で崩れ始める。

 夕暮れの教室で二人きり。誰かが乱入してくる可能性は、明日雛鳥が早起きして朝御飯を用意する確率と同じくらい低い。朝にあれだけ怒っていたのだ。加えて休日に雛鳥が早起きをすることなど皆無に等しい。いや待て、今は雛鳥の話などいい。

 あらぬ方向に思考が飛んでしまうほど動揺しているのには訳がある。堀江とて健全な中学生男子であるし、目の前の少女は間違いなく美がつく少女だ。そんな子と二人きりになるなんて、堀江の脳内でも想定していない。大体、堀江の脳細胞は勝手に阿賀野を先に帰ったものだと決め付けていたのだ。つまりは、さっきまでの毅然とした態度は、いきなりの出来事に容量オーバーを起こした脊椎反射のようなもので、要するにここに来て状況を再認識した堀江の脳は、端的にいって暴走気味だ。

「あ、そうだ!」

「はひ!?」

 突如として上げられた声に、堀江は過剰に反応する。奇声とも取れる素っ頓狂な声を上げるが、阿賀野は気にした風でもなく堀江に詰め寄った。

「あの、ここまで待たせておいてなんですけど、時間ありますか?」

「え…う、うん。あるけど」

「それじゃあ、買い物に付き合ってくれませんか?」

 にこやかにそう言う阿賀野の問いに、堀江は無言で頷いた。







「こちらオスカーリーダー。目標を補足した」

 五条院はイヤホンに偽装したトランシーバーに向かってそう呟く。だが、相手が反応するまでに若干の沈黙があり、しばらくしてからノイズ交じりの疲れた低い声が聞こえた。

『…ねぇ、オスカーって何?』

「なんだ佐野君。フォネティックコードも知らんのか?」

『…いいわ。別に。一生知らなくていい知識だと今私の脳が判断したわ』

「ふむ。そうだな。今フォネティックコードの説明をしている場合ではないな。状況を報告したまえ。オスカー1」

『その、オスカー1ってのは私なわけ?』

「それくらい文脈から図ったらどうだね?」

『だから確認取ってるんじゃないの! あんた喧嘩売ってんの!?』

「オスカー1。大声を出すな。目標に気付かれる」

『ふん。気付かれやしないわよ。見てみなさいよ、あの子、右手と右足が一緒に出てるわよ』

「…確かに…よもや現実で目の当たりに出来る光景とは思っていなかったが…。さすがは堀江君だな。予想の斜め上を行ってくれる」

『ホントね…』

 トランシーバー越しに佐野が呟く。

 目の前の二人もなかなか興味を惹かれるが、五条院は先程から交わされる佐野との会話にも大いに興味を抱いていた。

 五条院が堀江と阿賀野の尾行を提案したとき、案の定佐野は渋い顔をした。だが、何のかんのいいながら五条院と行動を共にしているし、それなりに楽しんでいるように見える。それに、最も驚くべきはトランシーバーで普通に会話が出来る点である。

 五条院が渡したトランシーバーは、多少の偽装がしてあるとはいえ、至極一般的な市販品である。電話などと違って、同時会話が出来ないのだ。しかも、音声送信には手元のスイッチを操作する必要がある。先程の会話の中で、相手に反応を求めることもせず、ノータイムで会話が出来るのは、脅威としか言いようがなかった。先日堀江と使用した際には、「どうぞ」だとか「オーバー」などと合言葉を言い合っていたというのに。あれはあれで味があるからいいのだが。

「ふむ、呼吸が合う、とでも言うのか…」

 五条院がそう呟いたと同時に、佐野から通信が入る。

『あ、動いた!』

「む、あそこは道方雑貨店…。そういえばあそこは堀江君の級友の実家だな」

『堀江…なんか必死に通り過ぎようとしてない?』

「対して阿賀野君は興味津々なようだな。まあ、あんなことをしていれば…」

 案の定、店の前で不審行動を繰り広げていた二人は、店の中からでてきた道方に捕まり、半ば強引に店の中に連れて行かれた。阿賀野に見えない角度から、道方が堀江に対して鋭い蹴りを放つ。だが、分かりきっていたという風にガードし、二人は無言で火花を散らしていた。

『なんとなく、どういう関係なのか分かるわね…』

「そう結論を急がんでもよいだろう。阿賀野君の転校は今日なのだ。もの珍しい、といった感情が第一なのだろう。一目で関係を把握するその慧眼は結構だが、三角関係というには時期尚早だと思うが」

『別に三角関係だなんて一言も言ってないんだけど?』

「……」

 佐野が向こうでわざわざ顔を出して含み笑いをしているのが見える。五条院は口がすべったとばかりに顔を背けた。

「それよりも、ここからじゃ店内が見えない。状況を報告せよ、エコー1」

『…オスカーじゃなかったの? まあいいけど。店内の様子…って言ってもあんまり見えないわね…。あの雑貨店、物が多すぎるのよ』

「雑貨店だからな。需要があるものならば置いておくのが信条なのだろう」

 道方雑貨店は線香の一本から、一体どこの誰が買うのかと疑いたくなる特大の信楽焼きの狸まで『日用品』と名のつくものならば何でも揃うといわれている、商店街の端にある雑貨店である。

 五条院は一度、店内の品物をリストアップしてみようとしたが、堀江に止められた。店主でも把握しきれていない品物をひっくり返すなんて、時間がいくらあっても足りない。それよりもほら、他にも面白そうなことがあるじゃないですか、と説得されたのだ。

 堀江の言い分は正しいし、事実今も目の前で最高に面白そうなことが展開中なのである。自分の決定に不満を持つわけではないが、いつかあの店の中を探検してやろうと五条院は常々思っていた。

『それにしても…』

「どうしたのかね佐野君?」

『あのさ…あの二人、ホントにデートしてるの?』

「なぜだね」

『いや、だって…、あの二人が今までに寄ったところって八百屋にスーパー、それに肉屋でしょ? それに雑貨店。これって、どうやってもデートじゃないでしょ』

「はっはっは。見聞が狭いな佐野君。君は何かね。夕飯の買い物はデートにならないというのかね?」

『やっぱり夕飯の買い物なんじゃないの…』

「だが逆に考えてみたまえ。夕飯の買い物を一緒にするほど仲がいいとしたら? どうやっても赤の他人の夕飯の買い物には付き合ったりせんだろう?」

『それはそうかもしれないけど』

「いや、あまつさえ同棲している可能性も否めない! 夕飯の買い物とはそこまでの可能性を持っているのだ!」

『可能性も何も。してるじゃない同棲。雛鳥のこと忘れてるの?』

「……そうであったな」

『でもまあ、確かに赤の他人の夕飯の買い物に付き合ったりはしないわね。うーん…関係が気になるところではあるわ』

 正直、五条院でさえもその関係を図りかねている。

 先程はああいったが、同棲している可能性はありえない。これでもずいぶんと長い間堀江を見てきた。彼は人間関係において形を重視する。そんな彼が半家族とも言うべき同棲相手に対して、あそこまで露骨な緊張を見せるとは考えがたい。

 だがしかし、阿賀野がつい最近この町にやってきたことは確かである。少なくとも、学校に現れたのは昨日であり、堀江との接点が多いとは思えない。堀江は、その家業のせいか、あまり外には出ない性質である。番台に座っているか、それか家事をしてるのが常だ。逆に言えば、堀の湯に阿賀野が入浴に来たとすれば論理的にスムーズだ。接点の説明はつく。が、そこで夕飯の買い物につながるかといわれれば…。

「むう…理詰めでは限界があるか…」

『あ、二人が出てきた』

 佐野の声に思考を中断し、五条院は体ごと振り返る。道方雑貨店の前で、なにやら道方がありがとうございましたーと叫んでいる。対して堀江は、肩を落として落ち込んでいる。それを阿賀野が困ったような顔でなだめていた。

「…どう思う、佐野君」

『阿賀野…さんだっけ? が商品に興味を示して…、それでその商品が対戦型のゲームか何かで何かを賭けて堀江と道方が勝負して、堀江が負けたってところかしらね』

「…変に具体的なのは何故だ?」

『ま、ちょっとは店内見えたからね』

「ふむ。確実性は高いか」

『次はどこへ行くのかしらね?』

「順当からいけば…そうだな…」

 二人が視界から消える寸前を狙って潜んでいた角から抜け出し、次のポイントに移動する。佐野に指示を出すのが遅れたが、まあ、この程度の尾行なら問題あるまい。あの路地は隠れるところのない一本道。あの先に商店はない。堀の湯とは方向が違うから、恐らく阿賀野の家があるのだろう。とすれば、やはり二人は同棲していない。自分の予想が合っていたことに口元をゆがめ、さて、ついでに阿賀野の家を知っておくか、と路地を覗き込んだ瞬間。

「―――む?」

 二人の姿が消えていた。





 いきなりだった。

 別に何を踏みつけたわけでもない。空き缶でも、ガムでもない。何の変哲もないアスファルトのその地面を踏みしめた瞬間、胃がぐるりと回った。

 強烈な吐き気に襲われて、目の前が急速に暗くなる。肺の中の空気をいっぺんに吐き出して、思わず膝をついた。立ちくらみの何倍も重たい症状みたいだ。一体何が起こったのかと考えるが、ガンガンと鳴り響く頭がそれを許さない。

 が、その異変は来る時と同じようにして突然引いていった。

 呼吸が楽になり、先ほどまでひどい頭痛を訴えていた頭も、今はなんともない。

「……っは……」

 一つ大きな息を吐くと、堀江はその場に膝をついた。乱れた呼吸を整えるために肩で息をする。まるで長距離を全力疾走したかのような感覚だ。

「一体な」

 にがおこったんだ。だがしかし、顔を上げて呟いた堀江の言葉は飲み込まれた。


 阿賀野が、信じられないものを見るような目つきで、堀江を凝視していた。


「――――え…?」

 見開かれた双眸が、動きを止めたその体が、何故か堀江を追い詰める。自分はそんなに体調が悪いように見えたのだろうか。考えてみればいきなり膝をつくような体調不良は経験したことがない。

 とりあえず無事を報告しなければならないと、慌てて立ち上がった瞬間、がっと右手をつかまれた。

「ぅわ!」

 突如としてがくんと体が傾く。阿賀野に手を握られたという事実の認識よりも、ものすごい力で引っ張られる焦燥感が頭を埋め尽くす。一体阿賀野のどこにこんな力があるのか分からない。

「ちょ、ちょっと!?」

「いいから走って!」

 後ろ手に堀江を引っ張る阿賀野は脇目も降らず全力疾走。いきなりの事に、鞄を取り落としそうになる。慌てて掴み直すと、今度は足元がおぼつかない。思ったように足が動かないところを見ると、思った以上に回復できていないのかもしれないが、そんな事は目の前の存在はお構いなしらしい。半ば引っ張られるように陽が落ちた薄闇の道を走り抜ける。

「い、いき、」

 喋れない。

 元々運動は得意な方だ。百メートル走の順位だってクラスで二番だったし、持久走だって自信ある。雛鳥には負けるが、喧嘩だって弱い方じゃない。

 これはさっきの原因不明の立ちくらみのせいだ。でなくては自分が女の子ごときに追い付けない訳がない。そうだ。きっとそうなんだ。

 そんな言い訳が堀江の中で景色とともに流れていく。最早、女の子と手をつないでいるという状況なんかでは断じてない。堀江は信じない。女の子と手をつなぐというシチュエーションはもっとロマンティックなはずである。

 商店街から離れ、街灯もまばらな路地をひた走る。だんだん濃くなっていく闇の中を、阿賀野は全くためらいもなく走っていく。

 それにしても、すごい速度だ。

 堀江はこの町で生まれてこの町で育った。この町で道に迷うことなどありえないし、現に今どこを走っているか、多少薄暗いながらも把握することが出来る。だが、最近引っ越して来た阿賀野がそこまで地理に明るいとは思えない。帰り道なのだろうか。

 そう言えば、阿賀野は東の知り合いだと言っていた。従姉弟か姪か。一緒に住んでいるのかもしれないと堀江は酸素の足りない頭で考える。この先には高台へ出る道があり、いつだったか堀江は、東は高台に済んでいると聞いたことがある。案の定、曲がり角を右に曲がって、高台への上り坂へ出る。

「うわ…」

 目の前の阿賀野はその上り坂を全くスピードを緩めず、むしろ加速していそうな勢いで登り始める。朝霧の町を見下ろす高台だ。それなりの高さはあるし、勾配だってある。自らが勝手に抱いていた阿賀野のイメージがどんどん変わっていくのを感じながら、堀江はそれでも後を追う。

 高台の上。朝霧の中でも高級住宅街と呼ばれるそこは、閑静な住宅街だ。そんな場所に建つ白い塔のような家。明らかに周囲に対して浮いているその家は、遠くからでもよく目立つ。給水塔で昼寝をする時に、一体誰が住んでいるのだろうかと想像を膨らましたこともあり、いつか入ってみたいなと思っていたその建物に、阿賀野は何のためらいもなく突っ込んだ。一瞬躊躇した堀江だが、残念ながら女の子に握られた手を自ら離すような勇気は堀江にはない。ああ、東さんの家ってここなんだ。辛うじて認識できたその事実が頭の隅にちらつく。

 周囲の壁に溶け込むような玄関のドアを開け放ち、土足のまま玄関のフローリングを踏みつける。「うわぁ」と情けない声を上げた堀江は靴を脱ごうとしたが、残念ながらそんな暇はない。ずんずんと進んだ阿賀野は、階段がある手前の部屋のドアを開け放ち、

「ちょっと!」

 ようやく止まってくれたと思ったら、目の前にエプロンを装備した東が飛び込んできた。

「あ、東さん…」

 堀江は無言で目を逸らした。

「おお、お帰り阿賀野。そしてこんななりをしてるがここは立派な日本式の住居だ。フローリングを大切に思うならローファーを脱いで…」

「そんなことより!」

「…そこで必死に俺を見なかったことにしようとしている堀江か? いつの間にそんなに仲良くなったん…」

 レタスを片手にいつもの軽い口調で喋っていた東は、どうにも反応がおかしいと思い口をつむぐ。阿賀野はどうしたらいいのかわからないといったように東を見つめ、傍の堀江はもっとどうしたらいいのかわからない。

 どうにも微妙な空気の中、とりあえず靴を脱がなければと堀江は片足を上げながら話題を探す。

「ここって、東さんの家だったんですね。いや〜変わったところに住んでるんですね」

「……」

「……」

 極めて明るく、極めて自然に振舞ったつもりが、全く持って無反応。さすがにここまでの反応のなさは予想していなかった堀江は、さてどうしたものかと黙り込む。

「…あ、そうだ、ふたりは」

「堀江」

 無視ですか。

 めげずに自分の発言を引っ込め、東の続く言葉を待つ。

「お前、どこに行ってた?」

「は?」

 どんな言葉が続くのかと思いきや、発せられた言葉は一目瞭然。自分はそんなに変な格好で学校へ行っていたのだろうか。無言で袖を上げたり、ズボンの裾を気にしてみたりするが、別段変だとは思わない。隠しようもない流れ出る汗は、すぐ傍におられるそちらの方のせいです。

「普通に学校…ですけど?」

「…普通、か」

 苦々しそうに目の前の現実を受け入れた東は、おもむろにレタスを机の上に置き、エプロンをはずした。無言のままリビングのソファの上に放り投げてあった新聞を引っつかみ、一瞥してから、堀江に差し出す。

「見てみろ」

「?」

 何のことはない。

 堀江の家でも取っている地方紙だ。どこぞの盆地でこの年の最高気温を更新したらしい。見出しで大きく書かれている文字を読んで、道理で暑いはずだと一人納得する。

「これがどうかしたんですか?」

「明日の天気」

「え?」

「明日は、晴れるか?」

 どうもさっきから話が一方通行だ。

「日曜日は…夕立ですかね? 曇りマークが出てますよ」

「……」

「……」

「…なんですか。一体。何かあるんですか?」

「おまえはそこそこ敏感な方だと思ったんだがな。俺の思い違いか…」

「? どういう…」

「日付」

 そこで、沈黙を守っていた阿賀野が堀江の言葉をさえぎった。

「日付…」

 堀江は言葉のまま、再び新聞に目を落とす。


 そして堀江は、瞬時にそこにあるものを否定した。


 それは、よくできた偽物。

 ここにあるはずがないもの。

 手の込んだいたずらか。それとも堀江の体内時計が狂っていただけで今日は…。

 いやしかし、学校があった事実はどう説明する?

 制服を着ている堀江を、阿賀野をどう説明する?


 結局自分の中では答えが出せないまま、救いを求めるように東を、阿賀野を見つめ返す。

 だが、東の口から出た言葉は、救いとはどう考えてもベクトルの違う言葉だった。


「…ま、その、なんだ。俗に言う、タイムスリップみたいなもんだ」

「…ごめん、なさい」


 タイム、スリップ?

 ごめん?


 堀江は、なす術なくそこに佇んでいた。





 悪い冗談なんだろうと思う。

 東から大まかな事情を聴いた今となってさえ、その現実は受け入れられない。

 だがしかし、襖を挟んだ向かいの部屋にある年代を感じさせるテレビからは、日曜日の夜におなじみとなっている国民的アニメが流れている。そう言えば雛鳥はあのアニメが嫌いで、曰く『明日から学校だって自覚してしまうから』という、実な理不尽な理由で食卓のチャンネルを回す。

「…聞いてるか? 堀江」

「え? ああ、ええ」

 嘘だ。

 聞いているというよりは聞かされていると言った方が正しいし、そこに理解のニュアンスは全くもって存在しない。

 そりゃそうだ。

 そんなトンデモ話、信じられるわけがない。

「聞いてますよ、もちろん」

「…んじゃ俺は今、何について話してる?」

 分からない。

 専門用語が飛び交う会話そのものも分からないが、その会話の切り口になった東の言葉がそもそも理解できない。

 だって。


「阿賀野さんが、本当は30歳ってことですよね」


 そんなわけ、あるわけないだろう。


 堀江はそう口にしながらも、その実言葉を全くもって信じてはいなかった。

 多少大人びた印象は受けるものの、目の前に座っている少女が三十路を迎えているなどと、誰が信じることができようか。世代的には堀江の母親と同じくらいだ。堀江は阿賀野に母親を重ねようとして、その困難さに思考を放棄する。

「…そのココロは?」

「なんですか、ウラシマ効果とか言ってましたか」

「…お前にお笑いの才能はないようだな」

「この状況下で何言ってるんですか」「真面目にしなさい」

 堀江と阿賀野の声が重なって東を貫く。だが当の本人はどこ吹く風といった様に腕組みをして、椅子の背もたれに背を預けた。

「よし。はっきり言おう。堀江、お前は馬鹿だ」

「脈絡なく人を馬鹿認定しないでくださいよ! なんですかいきなり!」

「俺が言ったのは浦島太郎状態になっているという意味であって、ウラシマ効果はアインシュタインの相対性理論に基づく物質の移動速度に対する時間軸のずれのことだろうが」

「今の言葉の中で理解できた名詞が、浦島太郎とアインシュタインだけなんですが」

「やっぱり馬鹿じゃないか」

 一度この大人と殴り合いによる相互理解を深めた方がいいのかもしれない。

「ま、要するにだ。阿賀野は不定期に数日間のタイムスリップを起こす。その頻度は結構なもので、戸籍上の年齢は三十を超えているが、肉体的・精神的年齢はお前らと同じだというわけだ」

「あんまり人の実年齢をばらさないでもらえますか…」

 阿賀野が非難めいた顔で東を睨む。

「…言っとくがこれ以上説明を簡略化するのは無理だ。これが理解できないと、俺はお前の頭を殴って、見たもの聞いたものを全部ふっ飛ばさなきゃならんので、そこんとこ理解しておいてくれ」

「なんつうラジカルな解決方法なんですか…」

 げんなりした口調で堀江は言う。だが、いくらか理解できた。


 曰く、阿賀野奈緒は、タイムスリップが出来る。

 曰く、そのタイムスリップは本人の意思で行われるものではなく、完全に不定期、そして移動する時間もまちまちである。

 曰く、そのせいで、阿賀野は戸籍上は三十歳ながら、実年齢は中学生相当である。


「ま、大体そんなところだ。細かいところの説明は省くけどな」

 東のその言葉の後に、「馬鹿だし」と小さく聞こえたのは気のせいだろうか。

「…で、だ」

 かしゅっと、小気味いい音を立ててジッポを取り出す。流れるような動作で取り出した煙草に火をつけると、東は堀江を正面から見据えた。

「協力してもらうぞ、堀江」

「は?」

「阿賀野と俺がここに来たのは伊達や酔狂でも、ましてや慰安目的なんかじゃ断じてない。朝霧神社、あるだろ?」

「ええ。学校の裏手にある古びた神社ですよね」

 堀江の頭にボロボロの社が思い浮かぶ。神社とは名ばかりの、荒れ放題の小さな社だ。賽銭箱はその役割を全く果たさず、地蔵は草に覆われて見えやしない。『朝霧神社』とは通称で、その実、地図にも載っていない、いわゆる捨てられた神社だ。

「…朝霧は、コイツが一番最初にタイムスリップした場所なんだ。そしてその場所は、神社。これは何かあるかもって話でな」

 大真面目に、しかしどこか言いにくそうに東が告げる。

「…え、なんですか。最終的に神頼みってことですか?」

「現代の技術で説明できんことは、未来か過去の理論で説明するしかない。過去の理論は伝説で、未来の理論はオカルトだ。…信憑性があるのはどっちだと思う」

「どっちもどっちだと思います」

 堀江は即答し、東は煙草をくわえたまま苦い顔をする。

「…まぁ、可能性の問題だがな…」

「……」

 東の言葉に、阿賀野が小さく顔を伏せる。

「ま、話は戻るが堀江、協力してもらうぞ」

「…なんの話ですか」

「説明したとおり、阿賀野はこの体質のせいで、普通の生活を送ることが非常に難しい。…かと言って、この多感な時期に度重なる転校、家に籠りきりの生活を送らせたくはない。言いたいことは、分かるな?」

「ちょっと、東?」

 予想外の言葉だったのか、阿賀野が横から口を挟んだ。だが、何といっていいのか分からず、そのまま口を閉ざしてしまった。

「いや、それは…」

 口をついたのは、否定の言葉。堀江は特別な才能もなければ、機転も効く方ではない。そんな役目を負ったところで、阿賀野の足を引っ張るのは目に見えている。そうだ、そんな役目は五条院に任せるべきだ。そう思い至った時、東は言い忘れていたように言葉を付け足す。

「まあ、お前がタイムスリップのくだりを信用していなかったとしても、俺たちに協力する気がなかったとしても、今日が日曜日で、阿賀野と二人丸々一日姿を消したことは動かしようのない事実なわけだが」

「……」

 撤回せざるを得ない。

 言外に含まれる言葉というのは、得てして鋭利な刃物に似ている。堀江の喉元に突き付けられた『既成事実』という刃物は、堀江から言葉を奪うに充分な力を持っている。

 というか、これはすでに脅迫ではないだろうか。

「き、気にしないで堀江君。この馬鹿の言うことは真に受けないで。この事は表には出さないようにするし!」

「そうは言うが阿賀野…」

「いいの! 私が転校すれば話は片付くでしょ!」

 阿賀野の言葉に、東は不貞腐れたように閉口した。傍から見ていて、中学生に言い負かされる大人というのは、何とも違和感の残る光景ではあるが、その相手が東だというだけで、何故だろう、妙に納得してしまうのも事実だった。

「本当にごめんなさい。今日のことは忘れて? あなたの貴重な時間を奪ってしまったのは謝っても許してもらえるものではないけれど…二度とこんなことはないようにするから」

「……」

 阿賀野の言葉に、堀江は顔を上げた。

 そこには、阿賀野の笑顔がある。だが、その笑顔は、あの夕日に照らされた教室で、堀江を買い物の誘ってくれた笑顔なんかでは断じて、ない。

 一つ、分かった。

 困惑と悲しみ。複雑な感情の混ざり合ったその笑顔は、阿賀野には似合わない。

「やる」

「え」「お?」

 短い一言に、二人が反応する。阿賀野は驚愕、東は期待だ。

「全部理解できたわけでもないし、納得できたわけでもないけど。嘘を言ってないのは分かったから。それに…」 

 続く言葉は何だろう。うまく言葉にできないが、これで阿賀野と別れるのは、単純に嫌だった。

「でも…」

「いいじゃないか。男がこう言ってるんだ。いい女は立ててやらなきゃな」

 軽い調子で言う東を阿賀野が睨む。だが、それも一瞬で、すぐに阿賀野は例の笑顔で堀江に向き合う。

「堀江君。本当に気にしないで。私は…」

 その笑顔を向けられるのが嫌で、堀江はそっぽを向いて言葉をさえぎる。

「…堀江」

「え?」

「堀江でいい。堀江君なんて虫唾が走るから言わなくていい」

「……」

「だってよ? 阿賀野。お言葉に甘えてみればいいんじゃないか?」

 それでも阿賀野はその笑顔を崩さずに、困惑している。いい加減じれったくなってきた堀江は、ぶっきらぼうに右手を差し出した。

「…よろしく」

「え?」

「堀江、和馬。よろしく!」

 もう何が何だかわからない。自分が何に怒っているのか、そもそも自分は一体何をしているのか。体中が熱くなっていくのが分かり、もしかしたら顔も赤いかもしれない。

「ほれ」

「…あ」

 東が阿賀野の手を取って、無理矢理堀江と握手をさせる。堀江の手は当然熱く、だがそれを握る阿賀野の手も熱かった。

 その熱さに二人はさらに赤面する。にやにやと笑いを浮かべる東に見守られ、阿賀野は、消え入りそうな声でこう言った。


「阿賀野、奈緒です。…よろしく」


 こうして堀江一馬は、阿賀野奈緒の秘密を共有することになった。



 

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