なつぞら 〜僕と彼女と小さな町のものがたり〜


 

プロローグ 片田舎の一日




暑い。


 7月初旬。暦の上ではまだ初夏である。

 まあ、夏である以上暑いのは当然かもしれないが、このセミの大合唱と刺すような日光は間違いなく盛夏のものである。でなくては背中から吹き出る汗の理由が理解できない。

 そして、この学校にはエアコンなどという文明の利器は存在しない。せいぜいが職員室に鎮座し、教職員に神と崇められている扇風機が関の山だ。

 以上の因果性から、堀江が授業放棄をしてこの給水タンクの陰で休んでいるのは自明の理である。教師がこの姿を見れば難癖をつけるだろうが、堀江からしてみれば職員室から扇風機を拝借しないだけましだと思っている。

「大体悪いのはこの太陽…。僕は決して悪くない…」

 太陽からしてみれば暦なんて人間の都合であり、さらに言うと二酸化炭素かなんかによって地球温暖化が進んでいるのは全く持って太陽の関せぬところなのであり、言いようによっては人間の自業自得というわけにはなるが、それを認めたところでこの殺人的な直射日光は弱まらないのだった。

 屋上のこの給水タンクの陰。風通しもよく意外に快適なのだが、いかんせん高い場所にあり、運動神経に自信のないやつはまず登ってこない。運動神経あるやつでも、わざわざそんな労力を払ってまでこの場所に来たいかと言われればNOと答えるに違いない、要するに邪魔の入らない絶好の昼寝ポイントだ。

 5時限目終了の鐘の音がスピーカーから流れる。音量を大きくしすぎて割れたような音を出すその録音された鐘の音には、ありがたみなんかありはしない。ただそこには、人間たちの時間の区切りという意味しか存在しない。そんなどうでもいい話を話してたのは…

「東さん…」

 学校帰りのコンビニで漫画を立ち読みしていた時、同じように成人向け雑誌を立ち読みしていた大柄な男性は、遠くで鳴る鐘の音を聞いて確かにそう言った。というより、つぶやいたといった方が正しい。詩人のように遠くを見据えて言ったその言葉を、その表情を、堀江は漫画の主人公が必殺技の名前を見開きで言っているページを開いたまま見つめていた。

 しばらくして彼は、バカみたいに呆けた顔をして見つめる堀江に対して、こう言い放った。

「お前、童貞だろ?」

 その言葉にバカみたいに素直に頷いた堀江を、彼は指までさして笑った。

 我に帰った堀江は真っ赤になりながら彼に殴りかかった。別に本気じゃなかったが、それなりの力がある堀江の拳を彼は笑いながら全て受け流した。店員に怒られるまでしばらく続いた攻防の後、堀江達は仲良く店の外に放り出された。

 彼の名は、東といった。

 笑いながら自分の名前を明かした彼は、どこか胡散臭さがぬけない感じがしたが、本能的に悪い人じゃないと思った。

 その手にぶら下がるビニール袋には、堀江の漫画と、彼の成人向け雑誌が入ってた。

 それからというもの、彼と堀江は町中でよく会うようになった。

 元々が狭い町だ。遭遇率は必然的に高くなる。

 コンビニ、駅、喫茶店、銭湯。

 彼はよく堀の湯に入りにくる。500円玉をガンマンかなにかのように弾いて寄越し、手ぬぐいを肩にかけながら「フルーツ牛乳。瓶でな」といって手品師もびっくりなスピードで服を投げ捨てて湯船に突進していく。いきなり湯船につかるのはルール違反だ。そこらへんは彼もわかってるらしく、びっくりするくらい熱いお湯を…熱いお湯を…熱い…お湯……。

「熱い!」

 首筋に異常な熱源が発生し、堀江は夢の世界から一気に現実に引き戻された。飛び起きた後、あわてて後ろを見ると、にやけた笑いを浮かべる道方の姿があった。

「ぐっもーにんぐ。堀江。お目覚めはいかが?」

「お前のせいで最悪だ。一体なにしやがった」

 道方の手にはライターと見慣れない箱が握られている。そして堀江がさっきまで寝ていた所には黒ずんだ何かが落ちていた。

「……お灸かよ。また渋いものを」

「おお! 大正解だ! やったな堀江。道方雑貨店ポイントプレゼントだ」

「いらんッ!」

 ポケットに手を突っ込んで何を出したかと思えば、見慣れたスタンプだった。

「えーい! 一体何をしにきたお前! 僕の安眠妨害しといて!」

「え? ポイン…」

「ちなみに、ポイント進呈しに来たなんていったらただじゃおかない」

「……ふ。大事な親友がクラスを抜け出せば心配になるものだろ。教師に無理を言って捜索を買って出た俺のこの献身的な……」

「要するにお前もサボりか」

「…頼むから最後までセリフをしゃべらせてくれ。泣きそうだ」

 泣きそうだというわりには笑顔で、しかもその顔には「堂々とサボれる」と油性マジックで書いたんじゃないかってくらいにでかでかと書いてある。堀江もそれなりだが、こいつもいい根性してると思う。

「んで? なにしてんだ?」

「別に…昼寝でもしようと思っただけさ」

「ふぅん…」

 何かいいたげな視線を寄越す。しかし堀江はそれを無視してごろりと横になった。

「……次の授業、絵里ちゃんの英語だぞ」

 その言葉でむくっとおきると、ボソッと言った。

「でないと、マズイな」

「そうだな」

 大抵の授業は「頭が痛い」などといって保健室に逃げ込んだり、「腹痛だ」といってトイレに駆け込めば、サボることなど昼休みの購買で焼きそばパンを確保することに比べたら100倍も楽勝なことだった。だがしかし、こと新任教師山口絵里の行う英語の授業だけは勝手が違った。彼女はどんな厳しい教師よりもたちが悪く、何故悪いかというと悪気がないからであって、端的にいうと天然なのであった。

 保健室に逃げ込めば授業を中断してでもお見舞い。そのまま時限終了時までベッドのそばを離れない。トイレに駆け込めば5分おきに調子を確かめにくる。返事をしなかった生徒に対して、何をとち狂ったか救急車を呼び寄せたことまである。

 かくして赴任からわずか2ヶ月を持ってして、「朝霧第2中学要注意教師」の烙印を押されるに至った。もちろん生徒間の呼称であり、教職員連中はそんなこと思っているはずもないが、この山口に関しては同意見であると堀江は見ている。

「なにせ部長が一目置く存在だからなぁ」

「だろうよ。俺もあれには逆らう気がしないからな。まじめにやっとくのが吉だ」

 夏の生ぬるい風が肩を抜けていく。

 首筋のやけどのあとを優しくなでて、そして彼方へと帰って行く。

「…行くか。もう鐘が鳴るぞ」

 道方はそう言ってハンドスプリングで跳ね起きる。

「鐘が鳴るわけじゃない」

 堀江もゆっくりと立ち上がり、給水タンクを見上げる。

「僕たちが勝手に鳴らしてるだけだよ」

「……詩人だねぇ、堀江は」

 茶化す様なその言葉を最後に、きしむ屋上の扉を開け、堀江たちは屋上を後にする。

 誰もいなくなった屋上は、ただ、夏の風をたたえていた。








 6時限目の試練を抜け、堀江はいかにも眠そうなあくびとともに部室長屋を目指す。

 部室長屋。正式名称はクラブハウスという。体育会系クラブのすべてと文科系クラブの一部がそこを根城にして日々を過ごしている。

 しかし、そこは放課後限定の治外法権地域。教師たちの踏み入ることの出来ない朝霧二中の暗黒面が広がっている。

「…そんなんだから生徒会に目をつけられるんだよな」

「そういうな堀江君。いわれるうちが花…という言葉もあるだろう?」

「?!」

 独り言をつぶやいたつもりの堀江は、その予想外の返答にとっさに身構える。だがしかし、振り返った先に待っていたのは無常にも襲い掛かってくる水流だった。

「わぷ!」

「ははは! 油断したな堀江君。まだまだ精進がたらん!」

 破顔一笑。惚れ惚れしいほどの笑顔で理不尽なことをのたまう男は、片手に持った水鉄砲を構えながら言う。

 五条院、登。その偉そうな名前とともに態度はすざまじくでかい。堀江の属する天文部の部長にして、学校一の問題児である。その行動力は他の追随を許さず、年中教頭をはじめとする一部の教師と風紀委員を敵に回して暗躍している。頭脳明晰の彼だが、欠点も多い。その相手の神経を逆なでするような敬語は教師の怒りを買い、そのよく言えば好奇心、悪く言えばいたずら好きな性格は風紀委員の目の敵にされている。彼曰く

「私を否定することは出来ん。私は私を肯定しているからな」

 らしく、もうデカルトも真っ青な哲学論を披露したかと思えば、一歩間違えばただの自己中ゴーイングマイウェイ野郎なのだが、堀江はその破天荒な彼が好きだった。

「一体なんですか? 出会い頭に狙撃されるような悪事は身に覚えがないんですが?」

「ふむ。では本日5時限目、君の教室で行われた古典の授業、欠席者が一名だったそうだが、一体誰だったのかね?」

「う」

「…まだまだだな堀江君。基本的なアリバイ工作の仕方はレクチャーしたはずだが。こうも簡単に第三者に情報が漏れてくるようでは一人前とはいえんな」

「それは情報が漏れたんじゃなくて、部長が勝手に盗聴器かなんか仕込んでたんでしょうが!」

「情報が漏れるということは必ずしも能動的なものではない。第三者にある情報が知られるということを情報の漏洩というのだ。その意味で君は重大なミスを犯している」

 そういって五条院は眉根をよせる。

「ふむ…まあいい。君のその突拍子もない行動は時として敵を錯乱するのに役立つだろうからな」

「敵ってなんですか…」

「敵は敵だ。ま、状況によりけりだがな」

 二人は並んで部室長屋を歩く。

「んで、その水鉄砲はどうしたんですか?」

「ああ、これか? ほれ、夏休み前にクラスマッチがあるだろう? その競技種目の一つとして提案したんだがな。門前払いを食らった」

「水鉄砲でですか」

「うむ。今回は利権抜きでまじめに取り組もうと思ったのだが…いかんせん鈴木君の反対が強くてな。見送りとなってしまった」

「まあ、当然の結果でしょうね」

 クラスマッチで水鉄砲を打ち合うなんて、日本中どこの中学校を探したってあるはずがない。堀江は『天文観測部』と書かれたプレートを見上げながらそんなことを思った。

「ま、今日は夏の合宿についての話だ。そろそろ佐野君の我慢の限界だろう」

「あ」

 そういってドアノブを回す。その途端。

「おそーーーーーーーーーーーーーーーい!」

「うわ!」

 耳を劈くような怒声とともにバナナの皮が飛んでくる。五条院はそのバナナの皮を華麗によけると、先程と同じように涼しい顔をして言い放つ。

「はっはっは。佐野君。すまない。いやなに。少し生徒会と折衝があってね。彼らの言い分ももっともなのだが、さすがに大人しく引き下がるわけには」

「だったらもうちょっと慎ましく、平穏に、学生生活を送ることね!」

「佐野君。この私からお祭り騒ぎをとったらなにも残らんではないか…。全く、そんな基本的なこともわからんのか…」

「全力で脳から情報を排斥してたからねッ! ていうか、水鉄砲もって何の折衝するって言うのよ! ったく! 30分も待たせて…」

 どかっと怒りを隠そうともせずにパイプ椅子に腰掛ける、ショートカットの少女。天文観測部の良心にして、名を佐野小雪という。

 堀江の第一印象としては、元気で快活、ちょっと気分屋な面はあるが、基本的にまじめ人間で、おおよそ五条院を取り巻く友好関係には珍しいタイプといえ、どちらかというと一方的に敵対を宣言している風紀委員側の人間だった。

 しかし何故か五条院と行動を共にし、そのまじめさで五条院をたしなめる役を買って出ている。そんなことをしても一銭の得にもならないと思うが、それはそれで本人も楽しんでいるのかもしれないと最近思うようになった。

「すいません、佐野先輩。遅れてしまって」

「ん? ああ、堀江はいいのよ。むしろこのバカの言う事なんか半分聞き流すくらいでちょうどいいから」

「はっはっは! 佐野君。私の忠実な僕を懐柔しないでくれたまえ。…む? 懐柔?」

 さらりとした問題発言を何のためらいもなく流すと、五条院は佐野をじっと見た。

「な、なによ? いっとくけど懐柔なんてしてないからね! 私は堀江を正しい道に連れ戻そうと……」

「いや失礼。すまない。君に懐柔という言葉は似つかわしくない。だがしかしその体躯では誘惑というのもためらわれるな…ふむ…うまい言葉が見つからん。堀江君、なにかいい言葉を知ってはおらんかね?」

「いえあの部長…」

 逃げた方が、と言おうとした瞬間、堀江は部室が地獄に、目の前の少女が修羅に代わっていく瞬間を目撃した。



 堀江の所属する天文観測部の部室は一言で言うとカオス、二言で言うとものすごくカオスだ。

 つまりは途方もない散らかり様なわけで、ろうそく一本からパソコンまで見つからないものはないのではないのかという品揃えのよさだ。

 部員は現在堀江と五条院、佐野の3人で、部屋の広さは普通の教室の半分。なのにこの異常な圧迫感は一体なんなのかと堀江は常々思っているが、恐ろしくて掃除をする気にはなれない。

 そんな部屋で修羅が感情の赴くまま暴れたらどうなるか。

 そんなことはわかりきっている。



「……どうするんですか、これ?」

「さぁな? 私はてっきり佐野君に何とかする術があるものだと思っていたが?」

「ぐ…。も、もとはといえばアンタが!」

「感情に任せてその場限りの行動を起こすことは凡愚のすることだ、と常々豪語しているのはどこの誰だったかな?」

「……」

 数刻後、堀江が目にしたのはさらにカオスと化した部室と、ぼろぼろの佐野、そして扇子片手に優雅にそこに立つ五条院の姿だった。

「…とりあえず、座るところだけでも確保しませんか? 山が崩れてこなかっただけ良しとしましょうよ」

「そうね…ほら登! そっち持って!」

「ふむ。私はここを汚した記憶がないのだが…何ゆえ私まで労働力に加えられているのか説明を求めてもよいかな?」

「ごちゃごちゃいってないで手伝いなさい!」

「しかしこのゴミ…何処に捨てましょうか?」

「そうね…とりあえず集積所においとけばいいんじゃない?」

「こんな量のゴミを出したらいい顔はしないだろうな。また叩かれる要因を作ることになる…それはそれで面白いが、そろそろ夏休みの時期だ。下手に騒ぎを起こして夏休みに制限を食らうのは得策とはいえんな」

 そういうと五条院は少しの間沈黙し、諦めるようにため息をつく。

「仕方あるまい。あまり気は進まんが私がやっておく。今日は帰りたまえ」

「え?」

「ちょっと。どうするのよこれ?」

「なに。少し準備するものがいるのでな。心配するな。ばれぬようにうまくやる」

「って! また悪さを企んでんでしょアンタは!」

「はっはっはっは! 世の中面白い方向に話が進まんと退屈してしまうではないか」

「でも部長、やるったってこの量は…」

「大丈夫だ。先日ある物を手に入れてな。ちょうど使ってみたいと思っていたのだ」

「……もう。勝手にしなさい。人に迷惑かけるのはやめなさいよ」

「任せておけ。この五条院、いたずらはばれぬ様にやれを座右の銘に掲げている」

「…それは、ダメなんじゃないですか?」

 堀江と佐野は、もうすでに人の話を聞いていない五条院を見て、そろってため息をついた。

 夏といえども日は暮れる。窓の外はそろそろ夕暮れだった。






 突然だが堀江一馬は、毎日戦場を駆っている。

 そこは情け容赦ない歴戦の勇者たちが集う戦場であり、多少の心得では勝利することはおろか、生き抜くことさえ困難である。

 初めて堀江がこの戦場に名乗りを上げたとき、彼は数の暴力というものを知り、見事なまでに完敗した。味方などいるはずもなく、まわり全てが敵だという中で生きていく術はただ一つ。

 目立たないことである。

 目立たずに、決して前線にでることはなく、最小限の労力で最大の戦利品を手中に収める。それこそがこの戦場における極意であり、戦闘力というより体格に差のある堀江の必勝法であった。

「只今よりタイムセールを開催します! みなさん! ふるッ」

 メガホンで叫んだその青年の姿は、台詞の途中で波に飲まれた。宿命とはいえ、開戦を告げるその役割は毎度同情する。

 だがしかし、そうそう他のことに意識を割いている場合でもないのも事実である。第一陣、つまりはこのタイムセールの存在を知っていた主婦たちがなだれ込んだのが今。もうすぐ存在を知らなかったものたちもこの戦いに参戦するだろう。

 つまり。

「ベテラン買い物客の波が落ち着きなおかつ第二波が来る前の今が好機!」

 走り出すと同時に、戦利品を確保した主婦が身を引き一瞬隙間が生まれる。それを見逃さず、間髪いれず身を滑り込ませる!

「「そこだぁぁ!」」

 ……。

 …。

 なぜデュエット?

 そう堀江が思った瞬間、右から痛烈な当身を受けた。

「げふぅ!」

 前傾姿勢だったためか、脇腹に走る鋭い痛みにうまく気が回らず、こともあろうに受身に失敗し、ワゴンに頭から突っ込んだ。

 だがしかしそんな事故は目の前の大戦争の前ではなんの関心を呼び起こすものではなく、むしろそんな事は日常茶飯事だといわんばかりの空気が流れている。気の弱そうな買い物客が「大丈夫?」と声をかけてきたが、ワゴンに頭から突っ込んで大丈夫なはずがない。

「ああああ! 98円の卵が! 見るも無残に!」

 案の定最初の戦利品である特売品の卵が全滅していた。

「く…ぬかったか…」

 勝負の世界は非情だ。振り返ればすでに第二波が参戦しており、最早戦利品獲得は望めない絶望的状況。さらに特売の卵まで失ってしまった。特売品売り場にはもう存在しないだろう。堀江は叫ぶ。

「ちくしょう! どこのどいつだ! たかがタイムセールに当身なんて非人道的な技を使いやがった外道は!」

「タイムセールは戦場よ。負けたからといってそれは他の誰でもない、自分のせいよ。大体あれくらいの当身、受身が取れなくてどうするの。ま、あんたのことだから心配はしてなかったけど」

 魂の叫びというよりも理不尽な独り言に、律儀に答えるのは女の声だった。堀江が振り向くと、そこには鮭の切り身を持って悠然と立つ、背の低い女がいた。

「さ、咲!? なんでここに!」

「何でも何も、晩御飯の買出しに決まってるじゃないの。一馬こそどうしたのよ? 今日の当番は私でしょ?」

「…そりゃそうだけど。タイムセールと聞いて黙ってられるわけがないだろ」

「アンタのその主夫みたいな性格どうにかしなさいよ…。料理が出来るのはいいけどさ。中学二年でそんな所帯じみないほうがいいわよ」

「しょうがないだろが。ウチの親忙しいし。手のかかる居候はいるし」

「い、居候って何よ!? 晩御飯だってちゃんと作ってるじゃない!」

「成功率が50%を切る料理をちゃんと作っているなんて認められるか! 食材に謝れ! 僕に謝れ!」

「なんで一馬に謝らなきゃいけないのよ?」

「さっき僕に容赦ない当身食らわせただろ!」

「受身取れないあんたが悪い!」

「逆切れ!?」

 どうして僕の周りにはこうも気の強い女性が多いのだろう。目の前でいきなり憤慨する彼女を見ながら堀江は思う。

 彼女の名前は雛鳥咲。クラスは違うが堀江と同じ朝霧二中に通う中学二年生にして、堀江の家に居候している従兄妹である。

 同級生なので、兄妹と呼ぶにはふさわしくないかもしれないが、二人を並べてみると、やはりその体格に大きな差がある。標準的な堀江と比べて、雛鳥の名の通りのその体は、ふたまわりほど小さい。本人は個人差だといい、そのうち伸びると言い張ってはいるものの、女子の平均的な成長期は小学生から中学生の前期にかけての事であり、即ちもうすでにあまり望みは残っていないのだが、そのことを本人の前で言うと撲殺されかねない。

「もう少し手加減しろよな! この人間凶器!」

「な! あんたなんともないじゃない! 言いがかりよ!」

「言いがかりなわけあるかッ! 僕だから大丈夫なだけだ! 一般人なら失神してる!」

「ぐ…」

 幸か不幸かというか間違いなく不幸なのだろうが、堀江は幼少の頃から、雛鳥によるスキンシップと称した暴力以外の何者でもない理不尽をこうむっているお陰で、ある程度の防御力が備わってしまっている。でなければ、有段者の手加減無しの一撃で無傷なはずがない。

「まったく…」

「で、でもいいじゃん! 結果的にこの鮭の切り身はゲットできたわけだし! 一馬もこれ狙ってたんでしょ?」

「確かにな。ていうか、それで取り損ねてたら僕は一体何のためにワゴンに突っ込んだのかわからないからな」

「まあ、水に流すってことで」

「僕の台詞だ!」

 堀江は結局そのまま雛鳥の買い物に付き合い、清算を済まして店の外にでる。

 学校を出た時はまだ空は多少青かったが、今はもう見事な茜色だ。この時間になってもいっこうに下がらない気温と湿度は、本格的な夏の到来を告げていた。

 スーパーの袋を提げた堀江と、二人分の鞄を持った雛鳥は、並んでセミの鳴き声を聞きながら家への道を急ぐ。

「んで? 今日の晩飯どうする気だ?」

「あんた何見てたの? 買った物から想像してみなさいよ。想像力と洞察力が貧困な男はもてないわよ」

「お前の恋愛指南を受けるほど落ちぶれちゃいない。大体、買い物の半分がお前の私用のお菓子じゃないか。自分で持てよな」

「いいじゃない。あんたの鞄持ってあげてるんだし」

 堀江は自分の持つ袋から覗く、あふれんばかりのお菓子を見ながらため息をつく。

 新製品からロングヒット商品まで。お菓子好きの雛鳥は実に大人買いをする。消費速度も並ではなく、週一で買い足している。一体これだけの量をどうやって食べているのかも謎だが、小遣いの出所も謎である。

 しかし、このままこのお菓子の話を続けると、体重の話になってまた殴られるのは手に取るようにわかる。堀江は右手のお菓子袋から目を離し、左に持つ雛鳥曰く本日の夕飯の材料に目をやる。

「鮭の切り身をタイムセールで買って。あとは豆腐とネギと糸こんにゃくと…」

 そこまで言って、堀江は携帯を開いて今日の日付を確認する。目の疑いようもなく文月の中旬。もう夏休みは目と鼻の先。だがしかし目の前にある袋の中身も現実であり、こうなると雛鳥の脳内暦が狂っていると願いたい。

「お前まさか。このくそ暑いのに鍋でもやる気か」

「お! 正解! いやね、今日友達と鍋の話しててさ。久しぶりに寄せ鍋が食べたくなってね。ちょうど今日私の当番だし」

 どこをどうやったらこの夏真っ盛りの時期に鍋が話題に上るかわからない。そしてたとえ上がったとしても、タイムリーに今日鍋が食べたいという思考にはつながらない気がする。さらにいつものことながら、それに付き合わされる自分の都合など全くお構いなし。堀江はせめての妥協案を出す。

「…わかった。お前の言い分は理解した。鍋が食べたいんだよな。でも待て。よく考えろ。この時期に鍋は普通食べない。なんでかわかるか」

「暑いからでしょ? そんなつまんない理由で私の食への探究心を抑えられると思ったら大間違いよ」

「食への探究心は結構だ。願わくば食べられるものを創作して欲しいけど。ってそうじゃなくて。暑いからっていう理由じゃ半分しか正解してない」

「? えっと。熱いから?」

「…いいたいことは大体わかる。ニュアンスはわかる。けど違うぞ。もう半分は食材の旬だ。こんな夏に鍋やろうったって、夏野菜でやるわけにいかないだろ? 冬の鍋に比べるとやっぱり味は落ちる」

「それはそうだけど」

「だろ? そこでだ。今日の当番代われ。僕が鮭のムニエルと冷奴に変更する。実に夏らしいメニューだ。どうだ?」

「むー。鍋食べたかったんだけどな…」

「それは冬…せめて秋になるまで待て。夏に鍋食べるなんて我慢大会以外のなにもんでもないだろ。我慢大会したかったらサウナ使え」

 納得はしたが、いまだ鍋への思いを断ち切れずにいるのか、渋い顔をしている。

「まあ、いっか。それじゃあお願いね」

「ふぅ。助かった…」

「なんかいった?」

「別に」

 金曜日の今日。優雅なる週末にこれ以上疲れを貯められては敵わない。鍋ならさすがの雛鳥も失敗はしないだろうが、それ以外に鮭の切り身を使う料理なんか作らせたら成功率は限りなく低いに違いない。

 堀江は人知れず何度目かわからないため息をつく。

 横では、雛鳥が楽しそうに鼻歌を歌っていた。







「失礼する!」

 引き戸を恨みでもあるのかと疑うほどに勢いよく開け放ち、職員室に乱入した五条院は、教頭の目の前までずんずんと歩いていくと、机に手を叩きつけ、高らかに叫んだ。

「情報の開示を請求する!」

「は」

 空気が止まった職員室の中で、かろうじて声を出した教頭は、五条院の言わんとする意味がわからず、ただ呆然としていた。

「い、一体何を…」

「さらに校庭の角に放置してある重機の所有者と使用許諾、ならびに生徒会と風紀委員会の権限の一時凍結を」

 五条院はそこまで一気にしゃべって、ようやく自分がこの場の空気を止めていることに気がつく。

「…すみません。少々熱くなりすぎました。教頭、本日放課後に行われた生徒会ならびに風紀委員代表者数名による越権行為について説明を…」

 冷静に言い直した五条院は、それでもまだ残る違和感が気になった。一旦言葉を切って職員室を見渡す。すると、教師たちはあからさまに五条院の視線を避けた。

「?」

 なかでもいつもは五条院を目の敵にする数学教師までもが目を背けたのはおかしい。厄介ごとに巻き込まれたくないというよりは、五条院に早くこの場を出て行って欲しいという空気が場を支配していた。

「教頭。何か変ではありませんか?」

「な、なんのことかね五条院君! それに教頭と呼び捨てとは一体どういう了見かね。ちゃんと先生をつけて」

「む?」

「!!」

 よく見れば入り口に程近い英語教師が固まって座っている席、詳しく言うと山口の席が空席であった。

 校内に残っているのは机の上にある飲みかけのコーヒーからうかがえる。さすがにコーヒーを残したまま帰宅することはないだろう。椅子にブラウスもかけてある。しかし、五条院の記憶が確かならば、山口は新任ながら学年主任という大役をまかされており、部活などの指導には従事していないはずだった。下校時間まで後30分もないこの時間に、定期的に席をはずす理由があるとは思えない。

「失礼。山口教諭はどちらに?」

「な、や、山口先生に何の用かね? 彼女は今所用で席を空け…」

「ええ。大体こんなところね」

 教頭の言葉をさえぎり、応接室とかかれた小部屋から出てきたのは、山口絵里その人であった。片手に書類を持ち、誰かに話しかけている。

「それじゃあ、明日から、よろしくね」

「はい。よろしくおねがいします」

 すりガラスの向こう。山口に続いて出てきたのは、朝霧の紺色のブレザーではなく、水色のセーラー服を着た髪の長い少女だった。

「できれば教室ぐらい案内してあげたいんだけど。あいにくと仕事があって…ごめんなさいね」

「いえ、お構いなく。明日朝は職員室に来るんですし。その時でかまいません」

「そうはいってもね…」

 自分が教室を案内できないことがよほど気になるのか、それとも仕事を放り出して案内した時のリスクを考えているのか。どちらにしても、周りのことが目に入ってないのは確かであった。

「あの、先生」

「え? なにかしら?」

 山口にとって周囲の目はあってないようなもので、普段から気になどしてはいない。気にしていてなおかつ羞恥心というものが彼女にあるならば、朝霧二中の要注意教師とか、クラッシャー絵里なんて二つ名はつけられなかったであろう。しかし、さすがにその少女に至っては人並みの羞恥心があるのか、皆の注目を集めているのに耐えられないようだった。

「あれ? みなさんどうしたんですか?」

 見事に空気を読んでない発言で更なる溜息を引き出す山口。この時点で、山口とその少女以外には、この先の展開が手に取るようにわかっていた。

「山口教諭」

「あら、五条院君。どうしたの?」

「いえ、所用でして。それよりも、そちらの方は?」

「ご、五条院君! 君の用事は後日…」

 最後の抵抗とばかりに教頭が話に割って入る。だがしかし、ときすでに遅し。山口は五条院の顔を見て、いいことを思いついたと言わんばかりに顔を緩めた。

「ちょうどよかったわ五条院君。君、時間あるかしら?」

「は。この五条院、下校まで予定はありません!」

「や、山口先生!」

 悲鳴に近い声を出す教頭などすでに眼中にないといわんばかりの山口。

「教室の案内、おねがいできるかしら?」

「よろこんで!」

 笑顔で勝手に取り決めをする五条院と山口であったが、彼らの後ろには、頭を抱えながら下を向く教頭と、困惑気味の少女、やっぱりこうなったかという雰囲気に支配されている教職員の姿があった。




「さて」

 五条院は職員室から出て、少女に向き直った。職員室内は不気味な静寂に満ちている。おそらく教頭が何か言おうとしているが、なんら問いただす理由が見つからずに口をパクパクさせているだけなのであろう。そして我関せずといった様子の山口と、そのほかの教職員はそれを遠巻きに見ているに違いない。あまりにも容易に想像できるその光景に五条院はほくそ笑んだ。

「私の名前は五条院 登。この学校の三年生だ。君の名前を教えてもらってもよいかね?」

 その笑顔で何人の人を騙したか。計算されつくしたその微笑みは、初対面の人間にはいささか刺激が強すぎる。人は第一印象でころっと落ちる。少なくとも、一回は。五条院の自信だった。

「あ、私、阿賀野 奈緒といいます。父の仕事の都合でこの町に引っ越してきました」

 しかし、その少女は実にあっけらかんと、五条院の微笑みに真っ向から挑んだ。

 五条院でも一瞬面食らうような反応。純粋無垢。そういう言葉がぴったり当てはまるかと思ったが、そもそもそれならばあの微笑みに全くの無反応であろうはずがない。

「ふむ。なるほど。逸材、か?」

「え?」

「いや、こちらの話だ。気にしないでくれ。阿賀野君といったね。とりあえず行こうか」

「はい。お願いします」

 獲らぬ狸の皮算用、とはよく言ったものだ。彼女の評価を下すには早すぎる。五条院はとりあえずは歩きながら会話することで間を持たせることにした。

「ところで君は、転校は初めて経験するのかね?」

「あ、その、私、転校というか、学校に行ったことがなかったんです」

「ほう?」

「小さい頃は今より体が弱くて。入退院を繰り返してばっかりで。家庭教師…っていうか、勉強を教えてくれる方はいらっしゃったんですが、やっぱり学校に行きたくて、それで今回、私のわがままを聞いてもらえるようになったんです」

 それでも、体育とかはできないんですけどねと、少してれながら話す阿賀野を、柔和な顔の五条院が見つめる。だが、顔は確かに穏やかだったが、目は全く笑っていなかった。

 五条院の信条は好奇心に従うこと。

 自身の直感と好奇心を信じてきたから今の自分がある、そう五条院は信じている。そして今、自分の直感が告げている。この少女は、普通ではない。

「あの、五条院さん」

「なんだね?」

「その、この学校って、どんなところなのでしょうか?」

「……ふむ。なかなか難しい質問をするではないか。君の求める答えとは、一体何かね? 利便性、特色、校風などいろいろあるが?」

「あ、いえ、五条院さんにとってこの学校ってどんなところなのかと思いまして。私、学校というところがどんな所かいまいちつかめなくて」

「……」

「もちろん、知識としては知ってますよ。勉強して、部活をして」

「試す場所、だ」

 阿賀野の言葉を途中でさえぎって五条院が言ったのは、そんな言葉だった。

「試す場所ですか? 学力を?」

「学力も然り。私にとって学校とは、私を試す場所だ。私は私にとってのことに労力を惜しまぬ。結果としてよりよい学校生活を送るために、日夜努力する場所だ」

「なるほど…」

「だがまあ、人それぞれではある。中には義務教育だから、高校に行くためだからという人間もいる。そもそも、通っている理由など知らぬ輩が大多数だろう」

「はぁ。そんなものなんですか」

「そんなものだ。人はえてして、流されるということに疑問を持たない。それは確立された社会の常なのだが」

 五条院はそこまで言うと、ある教室の前で足を止めた。2年1組。先ほど山口から聞いた、阿賀野の通うクラスだった。

 先ほど職員室のドアを開けたのとは対照的に、静かにゆっくりと扉を開ける。窓から入る西日が、やけにまぶしかった。

「君はどうもいろいろ事情があるみたいだ。それがなんなのか今は聞かない。その方が君も都合がいいだろう?」

 西日に目を細めていた阿賀野は、五条院の言葉に少し困ったような、笑ったような顔をして頷く。それを見て、五条院は満足そうに言った。

「うむ。まあ、私としても君がこの学校でよりよい学校生活を送ることは大賛成だ。私でできることならば力になろう」

「はい、ありがとうございます。五条院さん」

「学校に、少なくとも中学校に慣れていないというのは本当らしいな」

 五条院は肩から提げていた通学用の鞄から、一枚の紙を取り出す。そして、近くの机で、何かを書き始めた。

「?」

「学校の楽しみ方は、人それぞれあるといったな?」

「え? あ、はい」

 何かを書きながら、いきなり五条院が話しかける。

「それは確かに正論だ。だが、現代において、その楽しみを、学校に来ることの意義を見極めるのはきわめて難しい」

「……」

「と、いうわけで」

 書き終えた紙を阿賀野に差し出し、夕日をバックに背負った彼は、笑みを浮かべて言った。

「何をすればいいかわからなくなったら来るといい。私たち天文部は、通年部員募集中だ」

 それだけ言うと、五条院はさっさと教室を後にする。後には取り残された阿賀野が、紙を見つめていた。

「入部、希望届」

 そう書かれたその紙は、コピーによる文字の劣化が激しく、注意書きの部分は黒い点にしか見えなかった。

 天文観測部、と恐ろしく達筆な字で書かれた欄と、自分の名前を書く欄、そして最後には、五条院登先輩、とこれまた達筆な字で書かれていた。

「あ」

 それで阿賀野は自分がさっきまで、五条院のことをさん付けで呼んでいたことに気がつく。

「そっか。中学校では『先輩』って呼ぶんだった」

 そういった自分が何かおかしくて、思わず笑顔になってしまった。

「ふふ…これが、私の通う教室、かぁ」

 たたずんでいた阿賀野の耳に、下校を知らせるチャイムが聞こえる。鞄は職員室の応接室に置かせてもらっていたので、取りに行って私も帰ろう、そう思って教室に背を向けた瞬間、彼女は重要なことを忘れていたことに気がついた。

「…道、覚えてないや…」

 五条院の不手際を責めるべきか、それとも話に夢中になりすぎて通ってきた道を忘れた阿賀野に非を求めるのか。どちらにしても転校初日どころか、転校してすらもいない夕暮れ時の学校で、一人迷子になってしまったことは、間違いなさそうだった。





 朝霧町には大きな長い煙突がある。

 夕暮れ時に白い蒸気を吐き出し、日付が変わるころにその一日の役目を終える。

 朝霧の人間なら誰もが知るその大きな煙突。高層ビルなどという都会の産物とは無縁の朝霧で、一際目立つその存在には、こう書かれている。

『堀の湯』



「ありがとうございましたー」

 時刻は11時半を少し回ったところ。最後のお客さんを見送った堀江は、暇つぶしに読んでいた本を閉じ、金庫の蓋を閉めた。そしておもむろに受話器を持ち、短縮ダイヤルの2番を押す。数回のコールの後、確実に寝起きの雛鳥の声が聞こえる。

『はーい…』

「お前また寝てたのか? 食事の後すぐに寝ると豚になるぞ」

『大きなお世話です…んあ? もうこんな時間? そろそろ終わるの?』

「ああ。父さんと母さんに言っといてくれ」

『はいよ。すぐ行くー』

 ふあ、とあくびをかみ殺しながら電話を切る雛鳥の姿が目に見える。恐らく、受話器を置くと同時に二度寝するに違いない。しかし、あれだけ寝るのに全く育たないのはなんでなんだろうと、堀江は心底不思議だった。よく食べてよく運動してよく寝る。健康優良児の見本みたいなヤツだ、そう堀江は思った。

 銭湯の後始末、とはいっても、堀江のすることはそんなに多くない。お金関係を片付け、電気製品の電源を切り、鍵をかけることぐらいだ。後は、堀江の両親が全てしてくれる。

 とりあえずのれんをはずそうと思い、引き戸を開けて外に出ると、生暖かい風が頬をなでる。

「あついなぁ…」

 でも外は風があるからまだましなのかもしれない。扇風機があるとはいえ、不快指数は比べるまでもなく中の方が高い。

 夏のこの時期が一番地獄だ。堀江は汗ばんだTシャツで風を送りながら玄関前の電気を切った。

「あれ? 今日はもう終わりか?」

 からん、と音がしたと思ったら、下駄をはいた東がそこに立っていた。そういえば今日見なかったなと、いまさらになって気がついた。

「東さん。今日は遅いですね。どうしたんですか?」

「いや、ちょいと野暮用でな。今の今まで仕事だ。全く。連絡くらいしてから行動起こせってんだよな…」

「はぁ」

「それより、今日はもう終わりなのか? 部屋でシャワーってのも夏だからいいけどよ」

「え? あ、いや、いいよ。お客さん途切れたからどうしようかって思ってたところだから。どうぞ」

「んじゃ、失礼するかな」

 東はお構い無しといって感じで暗い玄関を通る。さすがだなぁと思いながら、そのまま堀江はのれんをはずす。どうやら本日最後のお客さんは東になりそうだった。

「さてと」

 東なら放って置いても心配はない。何しろ二日に一回は入りにくる常連だ。ロッカーの左端の列、下から3番目の所はすでに彼の専用ロッカーと化しているし、飲み物を冷やしている冷蔵庫には彼のアセロラジュースが常に鎮座している。

 許可した覚えはないんだけどなぁ、と堀江は苦笑しながら玄関をくぐる。と、そこで奇妙なことに気づく。

「あれ?」

 靴箱が一つ、鍵がかかったままになっている。

 東の下駄はそもそも靴箱になど入っているはずもなく、今日も脱ぎ捨てたままになっているのだが、何故か靴箱の一つ、21番の鍵がなかった。

 時たま自分の靴箱をキープしようとする人間もいるが、昨日見たときは確かに鍵があった。

「…ま、いっか」

 どうせあまるほど靴箱はあるのだし、今度老朽化した鍵を一新しようという話もある。いまさら一つや二つ鍵がなくなったところで、わざわざ業者に頼んでこじ開けるのも面倒である。堀江は気にしないことにした。

「さて。んじゃま、女湯の方から片付けるとするか…」

 がらっと擦りガラスの引き戸を空けた瞬間、目の前に肌色が展開した。

「「え」」

 時が止まるとはこのことだろう。擦りガラスにかけた堀江の手は、そしてキャミソールを脱ごうとしていた阿賀野の腕は、確実にその動きを止めて静止していた。いきなり目が合ったという事実が、メデューサでもあるまいに体の動きを止める。人のいなくなった銭湯で動いているのは、年季の入ったボイラーと東、そして脱衣所にかけてある妙に真新しい壁掛け時計だった。

 先に呪縛が解けたのは幸か不幸か堀江の方であった。だがしかし、両者が同じように動きを止めている今、片方が動けば片方も確実に動き出す。

「あ」

「きゃああああああああああああああああああッ!?」

 引き戸から手を離すと同時に放たれた地対空ミサイルもあわやの声は、堀江の動きを停止させるには十分で、そこから起こった事を堀江はあまり覚えていない。

「痴漢?! 問答無用!」

 動きを止めた堀江の腰骨あたりに鈍い感覚が走る。と思ったら足は地を離れ、床と平行に体が浮いている。堀江がそれを認識した次の瞬間、備え付けてあるベンチにつっこんでいた。

「がはっ!」

「…ってあれ? 一馬? なんで?」

 いまだ片足を見事な位置まで上げたままで不思議そうな声を出す雛鳥の疑問に答える人間は、その場にいなかった。



「つまり」

 腰に親父くさいシップを張りながら不機嫌そうな声で堀江は言う。

「二人は知り合いで、一緒に銭湯に来たが途中でお金を忘れた東さんが先に阿賀野…さんだっけ? を行かしたと?」

「ま、そういうわけだ」

 靴箱の謎が解け、銭湯の火を落としてから数刻。堀江宅に場所を移した堀江と東はテレビを見ながらくつろいでいる。

 東が着ているものは、浴衣というよりは着流しといった方が似合う。だがしかし問題となるのはそういう点ではなく、堀江宅にて傍若無人にアセロラジュースをがぶ飲みしている点にある。ご丁寧にもそばに置かれた皿には枝豆が山積みになっていた。

「そこはビール飲むところじゃないの?」

「俺も本当はそうしたいんだがな、これからまた仕事があるんだ。ってことでアルコールは厳禁。アセロラジュースで我慢だ」

 我慢って、と堀江は呆れる。枝豆とアセロラジュースの取り合わせというものはどうかと思うが、健康的といえばそうなのかもしれない。少なくとも、脂ぎったスナック菓子とコーラの取り合わせよりかははるかにましである。

『うん! 奈緒ちゃん似合う!』

 ふすま一枚隔てた隣の部屋では、雛鳥が阿賀野に服を選んでいる。この暑いのに汗をかいた服を銭湯あがりに着るという行為は雛鳥的に許されないらしい。堀江もそれには同意である。

「でも東さん? 何で自分ひとりだけ着替え持ってきてるんですか」

「俺も言ったんだがな。あいつあんまり服もってないし。まさか俺のワイシャツ着せるわけにはいかないだろう。甚平はこれ一着しかないしな」

「その服のバリエーションのなさは人のこといえないですよ」

 なるほど、あれは着流しじゃなくて甚平というのか、と堀江は納得したが、その格好のままで仕事に行くのだろうか。

「お待たせ。いやー、奈緒ちゃん可愛いから何でも似合うわね」

「あの、雛鳥さん…この服、なんかすーすーして気持ち悪いんですけど」

 ふすまを勢いよく開いて入ってくる二人は、実に対照的な服装をしていた。

 雛鳥は色気もへったくれもない学校指定のジャージを腕まくり。対して阿賀野はキャミソールに短パンという服装だ。困惑気味の阿賀野に、活動的な服装のギャップがすごかった。

 しかし今の時間帯を考えると、確実に服選びを間違えているとしか言いようがない。いくら夏とはいえジャージのほうがいいんじゃないのか。

「おお。似合うじゃねぇか! ふむ、なかなか捨てたもんじゃねぇな」

 と、オヤジな反応を返す東だが、その横では堀江がその姿に見とれている。

 しかし、そんな視線に気づいた阿賀野は、堀江の視線から逃れるように雛鳥の体の陰に隠れてしまう。

「雛鳥じゃなくて咲って呼んでほしいな。あ、その服あげるわ。あんまり着ないし」

「いえ、それは悪いです。後日洗濯してお返しします」

「いいじゃねぇか。もらっとけよ」

 大人とは思えないその発言に堀江は我に返る。

「って、東さん、時間大丈夫なんですか? もう1時近いですけど」

 見上げる先の壁掛け時計はもう日付を越え、1時を指そうとしている。堀江や雛鳥にとってはいつものことなのでそれほど苦ではないが、普通の中学生にはそろそろきつい時間帯である。

「おお、そうだな。んじゃあ。そろそろ帰るか。堀江、アセロラジュースごちだったな。今度何かおごってやるよ」

「そりゃどうも。期待しないで待っときますよ」

 立ち上がる東に続いて、阿賀野はありがとうございますと頭を下げる。礼儀正しい子だ、と思い目を細めていると雛鳥がエルボーをかます。

「…なに見てるのよ」

「べ、別に何も見てないだろ!」

「?」

 なにをやっているのかわからない、というよりはどうしていいかわからないといった顔の阿賀野は、東に呼ばれて今度こそ玄関のドアを閉める。かんかんと階段を下りる音が聞こえる。

 キャミソールの絶対領域にたどり着くことはできなかったが、そこで堀江はふと疑問を抱く。

「なあ、咲?」

「なによ?」

「何でオマエ、あんな服持ってたんだ?」

「別に普通じゃない。どしたの?」

 雛鳥は活動的である。有段者でもあるし、スポーツにおいてはたいていそつなくこなす。服装にもその傾向が見て取れ、スポーツ系、どちらかというとボーイッシュな服装を好む。

 それから言うと、先ほどの阿賀野の服装には何の疑問もない。キャミソールははじめて見たが、下の短パンは着ているのを見たことがある。

「いや、なんで阿賀野さんが着れたのかな、と」

「……」

 話の意味を理解した雛鳥は無言で堀江の足を踏む。声にならない叫びを上げた堀江は、猛然と抗議の声を上げた。

「なにするんだよこのヤロウ!」

「うっさい! いいでしょ別に大きめのサイズ買ったって!」

 阿賀野の体型は標準、いや、少し背が高いくらいである。各所の発育は確実に雛鳥より大きい。にもかかわらず阿賀野が問題なく着れるということは。

「一馬のバーーーーーーーカ!」

「なにを!? このチビ!」

 理想の体型を夢見た雛鳥の買い物。くしくも先ほど「あんまり着ない」といった雛鳥の言葉は正しく、さらに、ウエストにそんなに差がないことを知った小さな乙女には、触れられたくない事実だった。

「あ、バカ! そんなとこ噛むな! いたいって!」

「バーカ! バーカ!」

 朝霧の夜は、今日も平和だった。






 東と阿賀野が帰宅し、雛鳥も寝静まった深夜、堀江の部屋にはまだ電気がついていた。

「ふぅ」

 堀江は溜息と共に鉛筆を置く。目の前の数学の問題集は思ったよりも難敵だった。中学生になって一年半たつが、テストの結果を見ても、このまま行くと確実に苦手科目になりそうである。

 すでに数学という何でこの日本に存在するのかわからない、数字と記号の羅列を目の敵にしている堀江としては、これ以上試験の時の敵を作るわけにはいかない。というのは建前で、今から夏休みの課題をやっておけばいざ夏休みに入ったときに楽できるかなという打算があるのだった。

「しかし…こりゃ難儀だなぁ。ぜんぜんわかんない…」

 傍らに教科書と参考書を装備しての挑戦だったが、この二時間で数ページしか進んでいない。薄い小冊子とはいえ、このペースで進んでいくことを考えると、さすがにうんざりしてくる堀江だった。

 ふと時計を見ると、午前三時を少し回ったところだった。にもかかわらず体を包み込む熱気には衰えが見えない。また今日も寝苦しい夜かと思うと、もう寝ることさえも億劫になってくる。どんな状況下でも寝れる雛鳥を、堀江は少しうらやましく思った。

「…でもま、今日はこの辺にしとくかな」

 今日は午前中だけとはいえ授業がある。そして昨日話が全く進まなかった合宿について五条院から何らかのアクションがあるだろう。授業中に寝ることを差し引いても、そろそろベッドに向かったほうが賢明である。

 堀江は机の上を片付けると、居間に向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出して口に含んだ。隣には雛鳥特製の見るもおぞましい色をした栄養ドリンクがあるが、堀江はそれが視界に入るたびに存在を否定している。多分、これを使えば死んでる人間も生き返るんじゃないかと思う。

 グラスを片手に、窓の外の夜を見つめる。

 朝霧は田舎である。

 夜になればその光を放つものは自動販売機か街灯、黄色と赤の点滅を繰り返す信号機ぐらいである。町に唯一あるコンビニも、夜十一時を過ぎればシャッターが下りる。

 もともと農村である。最近は開発が進んできたと聞くが、ゲームセンターや百貨店なんかは夢のまた夢で、今でも土地の半分は田んぼや畑であるというのが現状であった。

 そんな朝霧には、古くからさまざまな伝承がある。

 それこそ、考古学者や民俗学者が調査のためにこの町に来ることが珍しくないくらいに。現に道方の兄は、大学で民俗学を専攻し、将来はこの町で研究を進めたいといっているらしい。堀江には一体それのなにが楽しいのかよくわからないのだが、かといって自分がなにをしたいという思いがないのも確かである。

 道方は将来実家の雑貨店をもっと大きなスーパーにするのが夢だし、雛鳥は柔道で世界を狙うといっている。佐野は看護学校に通うつもりであると聞いているし、五条院なんかは、将来の夢を聞くのも愚問である気がする。

 堀江も漠然とこの銭湯を継ぐのだと思ってはいるが、それはやりたいことではない気がする。では何かと聞かれても困るのだが。

「…ダメだな。慣れない勉強なんかするからかな」

 グラスに残った麦茶を飲み干し、ついでに台所で顔を洗う。

「うし! 寝るか」

 柄にもなく将来のこと、なんて考えてしまった反動といえるような気合の一言をかますと、大きなあくびが出た。



これは、朝霧という片田舎で起きる、小さなキセキの物語。






 



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